一日の終わりに湯船に浸かり、心身の疲れを癒す。これは、多くの日本人にとって長らく当たり前の光景でした。しかし今、その「当たり前」が静かに、しかし確実に変わりつつあります。特に若い世代の間で、「浴槽のないシャワールームのみ」の住居を選ぶ人が増えているというのです。
親世代からは驚きの声も聞かれるこのトレンドは、一体なぜ生まれ、どこへ向かうのでしょうか? そこには、現代社会を生きる私たちの新しい価値観と、住まいに対する考え方の変化が見て取れます。
合理性が生む新たな選択:タイパ、コスパ、そして「風呂キャンセル」
若い世代が「浴槽レス」を選ぶ最大の理由は、突き詰めれば「合理性」にあります。キーワードは「タイパ」と「コスパ」、そして「手軽さ」です。
「タイパ(タイムパフォーマンス)」を重視する彼らにとって、湯船にお湯を溜め、浸かり、そして掃除をする一連のプロセスは、決して時間の効率が良いものではありません。シャワーだけで済ませれば、入浴にかかる時間を大幅に短縮できます。
「コスパ(コストパフォーマンス)」の観点からも、シャワーに軍配が上がります。毎日のように湯船にお湯を張る際の水道代やガス代(あるいは電気代)は、シャワーと比較すると少なくない負担です。シミュレーションによれば、年間数万円の差になることもあります。限られた生活費の中で、少しでも無駄を省きたいと考えるのは当然の流れでしょう。
さらに、「掃除の手間」も大きな要因です。湯船やそれに伴う洗い場は、カビや水垢が発生しやすく、こまめな掃除が欠かせません。シャワールームのみであれば、清掃箇所が少なく、日々の手入れが格段に楽になります。
こうした合理的な思考の延長線上に、「風呂キャンセル」という現象も生まれています。これは、必ずしも毎日しっかり入浴せず、シャワーで済ませたり、疲れているときは体を拭くだけにしたりと、入浴の優先順位を下げる行動を指します。時間や体力をセーブしたい、あるいはそこまで汚れていないと感じる、といった理由から、入浴そのものを「キャンセル」するという価値観は、以前ではあまり聞かれなかったものです。
タイパ、コスパ、手軽さ。これらの要素が絡み合い、「湯船は必ずしも必要ではない」という新しい価値観が生まれ、浴槽レスという住まい方が現実的な選択肢として受け入れられ始めているのです。
「浴槽レス」が生み出す、都市生活の新しい価値
「浴槽レス」の選択は、単なるコスト削減や時短に留まりません。特に住空間に制約のある都市部においては、住まいに対する新たな価値を提供します。
それは「スペパ(スペースパフォーマンス)」の向上です。浴槽分のスペースがなくなることで、その分を洗面所を広くしたり、居室スペースを広げたりすることが可能になります。同じ家賃でも、よりゆったりと使える部屋を選べる可能性が高まるのです。これは、家賃が高い都市部で、少しでも快適に暮らしたいと願う人々にとって、非常に魅力的なメリットと言えるでしょう。
また、「浴槽がない代わりに家賃が抑えられている」という点も、特に若い単身者にとっては大きなインセンティブとなります。浮いた家賃を貯蓄に回したり、趣味や自己投資に使ったりと、自身のライフスタイルに合わせて自由に使える経済的余裕が生まれるのです。
「浴槽レス」は、ミニマルな暮らしを志向する人々や、住まいに過剰な設備よりも立地や家賃といった条件を優先したい人々にとって、合理的かつ賢い選択肢となりつつあります。
このトレンドはいつから? 日本のお風呂文化と「浴槽レス」の歴史
ところで、この「シャワールームのみ」の住居というスタイルは、昔から日本の一般的な住居の形だったのでしょうか? 実は、そうではありません。
日本の住宅、特に集合住宅は、高度経済成長期を経て、各戸に湯船付きの浴室が備わるのが標準となりました。それ以前には、各部屋に浴室がなく共同の風呂を利用する形式や、非常に簡易的なシャワースペースしかない物件も存在しましたが、これは現代の「浴槽は無いが、個別のシャワールームが設置された住戸」とは文脈が異なります。昔のスタイルは設備の不十分さや共同利用が前提だったのに対し、現代の「浴槽レス」は、スペースやコスト、ライフスタイルへの配慮から意図的に浴槽を排除した設計なのです。
したがって、「シャワールームのみ」が、合理的で現代的な選択肢として広がりを見せ、一つのトレンドとして認識されるようになったのは、ここ10年~20年程度の比較的新しい現象と言えます。都市部への人口集中、単身世帯の増加、そして人々の価値観の多様化といった社会の変化が背景にあります。
誰が「浴槽レス」を建てるのか?
では、こうした「浴槽レス」の住居は、一体どのような建設会社が専門的に手掛けているのでしょうか?
実は、「この建設会社が代表的だ」と明確に言えるような、特定の「浴槽レス専門」の建設会社が存在するわけではありません。
「シャワールームのみ」という仕様は、マンションやアパートといった建物の種類全体を指すのではなく、あくまで浴室という一部の設備に関する設計の選択に過ぎないからです。建物を建てるのは、大手から地元の工務店まで様々な建設会社ですが、どのような建物を、どのような設備で作るかは、その建物を企画・開発する施主(不動産デベロッパーや賃貸物件のオーナーなど)が、マーケットのニーズや採算性を考慮して決定します。
そのため、都市部で単身者向けやコンパクトな物件を多く手掛ける不動産開発会社が、「浴槽レス」を一つの企画として採用し、それに伴って様々な建設会社がその設計に基づいて建築工事を行っています。リノベーションで既存の浴室をシャワールームに改修するケースも増えており、リノベーション専門会社もこのスタイルを手掛けています。
特定の建設会社がこのトレンドを牽引しているというよりは、マーケットの変化に応じて、様々なプレイヤーが「シャワールームのみ」という選択肢を提供している、というのが実情です。
お風呂の未来はどうなる? 変わる常識と残る価値
「浴槽レス」という選択肢の広がりは、私たちの「お風呂の常識」が変わりつつあることを示唆しています。このトレンドは今後、さらに一般的なものになっていくのでしょうか?
確かに、都市部での暮らしにおいては、合理性や効率を重視する傾向は今後も続くと予想されます。「浴槽レス」の物件は、今後も一定の需要を持ち続けるでしょう。シャワールーム自体も、ミスト機能や打たせ湯など、より快適性を高める方向に進化していくかもしれません。
しかし一方で、湯船に浸かることの根源的な価値が失われるわけではありません。疲れた身体を芯から温める温浴効果、リラックス効果、そして日本の文化としてのお風呂。これらは、「タイパ」や「コスパ」だけでは測れない、心身の健康にとって重要な要素です。
毎日でなくとも、週末だけはゆっくり湯船に浸かる、銭湯や温泉を利用する、といった形で、湯船の持つ価値を生活に取り入れる人も多いでしょう。
「浴槽レス」のトレンドは、私たちに「お風呂に何を求めるのか?」という問いを突きつけています。それは、単なる身体を清潔にする場所から、より多様なニーズに応える空間へと、お風呂の概念が進化している過程なのかもしれません。
今後、日本のお風呂文化がどのように形を変えていくのか。「浴槽レス」の広がりは、その変化の一端を示しており、非常に興味深い現象と言えるでしょう。