
はじめに:なぜ「墓じまい」が増えているのか
近年、「墓じまい」が増えていると言われている。
報道や調査では、過去10年で件数が倍増したという指摘もあり、住職のいない寺が全国で約2万あるともされる。
理由は、きわめて現実的だ。
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維持費が高い
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墓が遠い
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管理が面倒
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親族トラブルの火種になる
合理的に考えれば、「やめたほうがいい」に決まっている。
それなのに、
完全に墓をなくすことには、どこか不安が残る。
この割り切れなさ、
この「正しいはずなのに落ち着かない感じ」こそが、本稿の出発点である。
第1章 墓は誰のためにあるのか
よく言われる言葉がある。
「お墓や法事は、残された人のためのもの」
これは、たしかに正しい。
そして同時に、非常に重要な示唆を含んでいる。
墓は、死者のための装置ではない。
生きている側が、死をどう引き受けたかを示す装置だ。
だからこそ、
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墓が重荷になる
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管理が苦痛になる
この瞬間、墓は本来の役割を失う。
「安心の装置」が「負債」に変わるからだ。
第2章 コインロッカー墓という現代的な正解

都市部で増えている、いわゆる「コインロッカー型納骨堂」。
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小さい
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掃除不要
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維持が簡単
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法律的に安全
一見すると味気ない。
だが、これは現代における極めて合理的な折衷案である。
物理的には法律と社会に従い、
心の中では自由に祈る。
これは、
信仰を前提にしない時代の「墓の最適解」
と言ってもよい。
第3章 なぜ「葬式仏教」に違和感が生まれたのか
多くの人が感じている違和感は、ここに集約される。
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僧侶は髪もあり、肉も食べ、学歴を誇る
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正月には福豆の値段や味の話
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教えより、段取りと料金の説明が前に出る
そこに「法」は見えにくい。
仏教本来の言葉――
「法をよりどころにせよ」
「自身をよりどころにせよ」
これが、
葬式や墓の実務と結びついて見えないことが、
違和感の正体なのだ。
第4章 それでも人は「外注先」を必要とする
では、「自身をよりどころに」すればいいのか。
正直、それはきつい。
人生は、
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長く
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退屈で
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ときどき耐えがたい
だから人は、意味や祈りを外注してきた。
かつては、
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寺
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神社
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宗教
が、その役割を担っていた。
だが今、
その外注先が信用されなくなっている。
第5章 芸術・ROCK・物への外注
そこで人は、別の外注先を探し始める。
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芸術
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文学
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音楽
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ROCK
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車や機械(マッドマックスのV8のような「物」)
日本では特に、
物に人格や使命を与えることは自然だ。
これは逃避ではない。
依存を分散させる知恵でもある。
第6章 「面白お墓」という解答

大瀧詠一、水木しげるのように、
個性的な墓を残す人もいる。
これは執着だろうか。
むしろ逆だ。
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墓を絶対化しない
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遊びとして扱う
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物語として残す
墓を「重たい義務」から、
軽やかな記号へ変換する試みである。
第7章 坂本龍一という「墓を作らなかった人」
坂本龍一は、
墓よりも作品と展覧会を残した。
彼は、
死後も機能する外注先を、
生前に計画的に構築した。
作品は、
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管理費がいらない
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信仰を強制しない
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解釈を受け手に委ねる
これは、
極めて現代的な「墓」の形だ。
第8章 八百万という最終的な受け皿

では、最終的にどこへ向かうのか。
答えは、日本的にはあっさりしている。
八百万に祈る。
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寺社仏閣
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大木
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海
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作品
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墓
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気分
すべて含めていい。
一礼するかどうかも、気分次第でいい。
罰は当たらない。
重要なのは、
自分の心が向くかどうかだけだ。
おわりに:結論は出さない
「正しい墓」はない。
「正しい外注先」もない。
あるのは、
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自分が考え続けられるかどうか
墓も、葬式も、芸術も、宗教も、
そのための装置にすぎない。
墓じまいが増えているのは、
死者を軽んじたからではない。
意味を丸投げできる場所が、
この社会から消えつつあるからだ。
そして私たちは今、
その代わりを必死に探している。
――それだけの話である。