
はじめに:簡単な問いのはずだった
「レースクイーンやラウンドガールへのコメント、どこまでがOKなのか」
この問いに答えようとして、私は全ての倫理的基盤が崩れ落ちるのを目撃した。
SNSには毎日、彼女たちの写真が流れてくる。「健康的な太腿」「ムッチリヒップ」といった見出しとともに。コメント欄には「綺麗」「エロい」「もっと見たい」が並ぶ。一方で、「下半身だけの撮影は不適切」という批判も起こる。東京農大の大根踊りでは、学生が性的なコメントにショックを受けてSNS投稿を削除した。レースクイーンが「なぜ露出する仕事をしているのに批判するのか」と炎上する事例もある。
どう判断すればいいのか。何が適切で、何が不適切なのか。
私は答えを探し始めた。そして気づいた。簡単な答えはない。それどころか、どんな倫理原則も揺らいでしまうのだ。
第一章:表面的なマナー論の限界
「人格を尊重しましょう」という綺麗事
最初に思いつくのは、こういう答えだ。
「身体部位への執着的なコメントは避けましょう」
「人格全体への敬意を示しましょう」
「プロフェッショナルとして尊重しましょう」
一見、もっともらしい。でも、すぐに問題が見える。
初めて見るラウンドガールやレースクイーンに、どうやって「人格を尊重」するのか?
その人のことは何も知らない。名前も、性格も、何を考えているかも。SNSで写真を見かけただけ。「身体」しか見えていない状況で、どうやって「人格」を尊重するのか。
これは言葉の空転だ。対象が不在なのに「尊重する」と言っている。美辞麗句で誤魔化しているだけだ。
「当事者の声を聞きましょう」の欺瞞
では、「当事者の声を聞く」はどうか。
これも同じ問題を抱えている。初めて見る人の声なんて、聞けない。
その人が何を望んでいるか、どう思っているか、確認のしようがない。毎回DMで「このコメント大丈夫ですか?」と聞くわけにもいかない。
「当事者の声」を聞けと言いながら、実際には一般的なマナーや推測で判断するしかない。これは知的不誠実だ。
肉体は反射を引き起こす
さらに根本的な問題がある。人間の視覚は、肉体を見るとき、ほとんど反射的だ。
レースクイーンの写真を見た瞬間、脳は瞬間的に反応する。頭で「これは職業だ」「プロフェッショナリズムを尊重しよう」と考える前に、視覚的な刺激が先に来る。
これはホラー映画を見たときの心拍上昇と同じ。目の前の刺激に脳が反射的に反応する。見る行為と考える行為は時間的にズレて存在する。
つまり、「よく考えて見ましょう」という助言は、人間の認知プロセスの現実を無視している。
第二章:賞と批評の二重基準
レースクイーン大賞という矛盾
ある指摘が全てを揺るがした。
「賞もあるんだよね。そこでは批評されるわけだ」
確かに、レースクイーン大賞がある。コンテストがある。メディアは「健康的な太腿」「ムッチリヒップ」と報じる。審査員は外見を評価する。ファンが投票する。
つまり、公的に身体を評価・批評する場が存在する。
それなのに、個人がSNSで「太腿がいい」とコメントすると「不適切」と言われる。
何が違うのか?
ダブルスタンダードの構造
公式メディアの報道:
- 「ビールの売り子、健康的な太腿でラウンドガール初挑戦!」
- 「18歳JKラウンドガール、鍛えたムッチリヒップ&太腿に『綺麗だ、大好き』」
- → これはOK
個人のSNSコメント:
- 「太腿エロい」
- 「ムチムチ最高」
- → これはNG
でも本質的に何が違うのか?
「健康的」と「エロい」の違い?でも両方とも性的魅力を示唆している。
「報道」と「個人の感想」の違い?でも両方とも身体部位を強調している。
「権威」の有無?でも権威があれば身体を品評していいのか?
社会全体が矛盾している。女性の身体を評価・商品化するシステムを作り、それで利益を得ながら、個人がそれを模倣すると「不適切」と言う。システムは維持したいが、責任は個人に押し付けている。
第三章:「相性が良かった」という欺瞞

スポーツカーの曲線と女性の肉体
モーターショーのコンパニオン、レースクイーン。これらはよく「車の曲線と女性の身体の曲線が相性がいい」と説明される。
でも、これは本当に「美学的調和」なのか?
実際の構造はこうだ:
- 車 = 男性が欲望する対象(所有したいもの)
- 女性 = 男性が欲望する対象(所有したいもの)
- → 両方を並べることで欲望を刺激する
「曲線の調和」は建前。本質は男性の欲望を中心に構成されたディスプレイだ。これは「商品に肉体を添える伝統」として長年機能してきた。
「伝統」という正当化の脆弱性
「昔からそうだから」という説明もよく聞く。
でも、この「伝統」はたかだか数十年の歴史しかない。1950-60年代の広告文化が生んだ、特定の時代の産物だ。
そして実際に、F1はグリッドガールを廃止した(2018年)。
理由:「現代の社会規範に合わない」
廃止後、F1は問題なく成立している。つまり、「相性が良い」は必要条件ではなかった。車の魅力は損なわれていない。むしろ車の本質に集中できるようになった。
「相性が良い」「伝統」という説明は、権力構造を隠すレトリックだった。
ビール広告の変遷:「なくなってしまった」現象
かつてビールと水着女性の組み合わせは当たり前だった。1990年代〜2000年代前半、海辺やプールで水着の女性たちが「キレ」「のど越し」と並置される広告は標準的手法だった。
現在、大手ビールメーカーではほぼ消えた。
なぜ変わったか:
- 社会的圧力(ジェンダー平等意識の向上)
- マーケティング戦略の変化(女性消費者の重要性)
- 効果の疑問(性的要素が本当に売上につながるか)
例外:ホッピー(女性社長の企業)は継続
これは差別化戦略か、ターゲット層(居酒屋文化、中高年男性)への配慮か。重要なのは、女性経営者でも構造は変わらないという事実だ。性別ではなく、市場とビジネス判断の問題。
この変化は「進歩」なのか?それとも単なる流行の変化か?評価は分かれる。ただ確実なのは、「当たり前」だったものが消え、社会規範が変化したという事実だ。
第四章:職業の両義性と構造的制約
「売られてきた」わけではない
「グラビアアイドルも、レースクイーンも、自分で選んだ仕事だ。売られてきたわけではない」
これは完全に正しい指摘だ。
多くの人が自分の意思でこの仕事を選んでいる。オーディションを受け、契約にサインし、誇りを持って働いている人もいる。
彼女たちの主体性を無視して、「かわいそうな被害者」として扱うのは、パターナリズム(家父長的な保護主義)だ。本人の意思より「私たちの方が分かっている」という傲慢さだ。
でも「完全に自由な選択」なのか?
同時に、こういう問いも成り立つ。
どういう選択肢の中で選んだのか?
- 芸能界で成功したい → でもグラビアを経由しないと難しい
- 高収入が必要 → 他の選択肢より効率的
- 「自分の身体に自信がある」 → でもその「自信」は何によって形成されたか
「選択」と「構造」の両方が存在する。
これは二者択一ではない。完全な被害者でもなく、完全に自由でもない。構造的制約の中での主体的選択だ。
「職業自体をなくすべき」という意見
「そもそも、そういう職業が存在すること自体が問題では?」
実際、こういう議論はある。そして一部は実現している(F1のグリッドガール廃止など)。
廃止賛成派の論理:
- なぜ女性「だけ」がこの役割なのか
- 構造的な女性差別の象徴
- 「女性の価値は外見」というメッセージを発信
- スポーツやイベントの本質ではない
廃止反対派の論理:
- 女性の選択の自由を奪う
- 実際に生計を立てている人がいる
- 性的表現も表現の自由
- 問題は職業ではなく、不適切な扱いをする側
どちらも一理ある。そして、フェミニズム内部でさえ意見が分かれる。
ラディカル・フェミニズム寄りは構造自体を批判し廃止を主張する。リベラル・フェミニズム寄りは女性の選択の自由を重視し、労働環境の改善を主張する。
どちらも「女性のため」を掲げながら、正反対の結論に至る。この議論は何十年も解決していない。
第五章:「おおらか」という言葉の欺瞞
日本は「おおらか」なのか?
「日本は性に対しておおらかだよね」という言い方をよく聞く。
確かに:
- コンビニに成人雑誌(最近は減少)
- 駅の広告にグラビアアイドル
- テレビのバラエティで性的な内容
- 公共空間に性的表現が溢れる
欧米と比べると、公共空間での性的表現は確かに多い。
でも、これは本当に「おおらか」なのか?
「おおらか」は誰にとって?
加害者にとって:
- 行為が許される
- 責任を問われにくい
- → 確かに「おおらか」
被害者にとって:
- 声を上げにくい
- 被害が軽視される
- → 全く「おおらか」ではない
より正確には、日本の特徴は「おおらか」ではなく:
- 境界が曖昧
- 権力関係が影響する
- 声を上げにくい構造
- 問題の先送り
文化の中の二重基準
同じ露出でも、文脈によって評価が変わる:
格闘技・モータースポーツ:
- ジャンル特性上、野放し・下品な扱いが残る
- 「これはこういうもの」という容認
一般広告:
- より慎重、規制が厳しい
- 社会的批判を受けやすい
民度の差:
- 同じ身体の露出でも
- 業界文化や観客層によって
- 受け止め方は大きく異なる
「おおらか」と呼ぶことで、問題が見えなくなる。より正確には、誰にとっての「おおらかさ」かを問うべきだ。
第六章:AI生成画像という新たな地平

「人間のモデルと同等の扱いになるのか?」
AI生成の水着写真、リアルなCG。実在の人間はいない。
これはどう見ればいいのか?
「問題ない」派の論理:
- 実在の人間がいない
- 傷つく主体が存在しない
- 誰の権利も侵害していない
- → 表現の自由、被害者不在
「問題あり」派の論理:
- 女性の身体の客体化構造は同じ
- 性的客体化の視点を再生産
- 現実の女性への見方に波及
- 自分の認知への影響
- 実在モデルの仕事を奪い、より過激な要求の圧力に
どちらも一理ある。
実は、この問いは新しくない
最初、私は「AI時代の新しい問題だ」と言った。
でも指摘された:「実は、この問いは新しくはない」
確かにその通りだ。
イラスト、漫画、アニメ、CG――架空のキャラクターの性的描写は何十年も前から存在する。そして同じ議論が繰り返されてきた。
- 「被害者がいないから問題ない」
- 「いや、女性蔑視を助長する」
- 「表現の自由だ」
- 「社会への悪影響がある」
AIが変えたのは:
- 生成の容易さ(誰でも簡単に作れる)
- スピード(瞬時に大量生成)
- リアリティ(実写と区別困難)
でも構造的な問いは同じだ。そして、答えは何十年経っても出ていない。
「誠実に向き合う」対象は誰か
AI画像や漫画のキャラクターに「誠実に向き合う」と言うのは言葉の空転だ。対象が存在しない。
では何に向き合うのか?
三つの可能性:
- 自分自身のため — 性的客体化の視点を内面化しないため、現実と空想の区別を保つため
- 社会のため — 多数がそういう視点を持つことの集合的影響、文化的規範の形成
- 実は必要ない? — 完全に自由であるべき、という立場も一つの選択
結局、「誠実に向き合う」対象はキャラクターではなく、自分自身だ。自分の欲望、認知、価値観と向き合う。
第七章:「お天道様」と多様な倫理感

シンプルな答えを求めて
複雑な議論に疲れた。もっとシンプルな、実践的な答えはないのか。
「お天道様が見ている」
これだ。匿名だろうと、誰も見ていなくても、自分が恥ずかしくないかを問う。これなら:
- シンプル
- 実践的
- 日本人なら分かる感覚
- ブログにも書ける
やっと答えが見つかった――そう思った。
でも指摘された
「でも、世の中にはヤクザや風俗嬢は存在する。『お天道様が見ている』『みっともない』も万能ではないんだよ」
完全にその通りだ。
「お天道様」はいくつもある
主流社会の「お天道様」:
- 「性産業は恥ずかしい仕事」
- 「身体を売るのはみっともない」
風俗嬢の「お天道様」:
- 「プロとして誇りを持って働く」
- 「客を満足させ、約束を守る」
- 「自分の身体と労働に責任を持つ」
ヤクザの「お天道様」:
- 「筋を通す、義理を重んじる」
- 「弱い者を守る(建前でも)」
- 「男の美学」
全て、それぞれに「お天道様」がある。それぞれに「恥」がある。それぞれに「誇り」がある。
一つの「お天道様」が普遍的だと思うのは、主流社会の傲慢さだ。
重要な修正
そして重要な指摘:「『みっともない』より生活、という言い方も、全員が経済的に仕方なくやっているという前提に立っている。でも、全員が売られてきたわけではない」
自分で選び、誇りを持っている人もいる。私はまた、本人の主体性を無視していた。同じパターナリズムの罠に陥っていた。
第八章:黄金律さえ揺らぐ
最も基本的な道徳
「自分がされて嫌なことは、他人にもしない」
これは黄金律(Golden Rule)。世界中の文化に存在する、道徳の最も基本的な原理。誰もが納得する普遍原則...のはずだった。
でも指摘された:「『自分がされて嫌なことは、他人にもしない』という道徳さえ、揺らぐのだ」
なぜ揺らぐのか
「自分」が違う:
- ある女性:「自分の身体を褒められるのは嬉しい。『スタイルいい』と言われたい。セクシーと言われることに誇り」
- 別の女性:「身体のことを言われるのは不快。人格で評価されたい。性的な視線は嫌」
どちらも自分の感覚に基づいている。黄金律に従っている。でも正反対の行動になる。
文脈が違う:
- ヤクザ:「殴られる覚悟がある。やったらやり返される。これが世界のルール」(→ 暴力を受け入れている文脈)
- 一般人:「暴力は絶対にダメ」
立場の非対称性:
- 有名人:「批判されても地位は揺るがない。身体のことを言われても平気」
- 一般人:「同じことを言われたら深く傷つく」
認識の違い:
- グラビアアイドル本人:「私は美を表現している。プロとして評価されている」
- 外部からの視線:「性的に消費されている。物として扱われている」
黄金律は前提する:
- 人間は基本的に同じ感覚を持つ
- 同じ状況なら同じように感じる
- 自分の感覚は他者にも適用可能
でも実際には、人は多様で、感覚は異なり、文脈は様々だ。前提が崩れている。
第九章:四層構造で理解する

ここまでの議論を整理しよう。問題は四つの層に分かれている。
第一層:肉体(反射の層)
人間の視覚は、肉体を見るとき、ほとんど反射的だ。
レースクイーンの写真を見た瞬間、脳は瞬間的に反応する。頭で「これは職業だ」「プロフェッショナリズムを尊重しよう」と考える前に、視覚的な刺激が先に来る。
これは止められない。
ホラー映画を見たときの心拍上昇と同じ。目の前の刺激に脳が反射的に反応する。レースクイーンの下半身だけを写した写真がSNSで拡散され、被写体が不快感を示した事例。18歳JKラウンドガールへの「ムッチリヒップ」報道で精神的負担を抱えた事例。
見る行為と考える行為は時間的にズレている。
第二層:記録(固定と拡散の層)
写真やAI生成物は、現実をそのまま写すわけではない。
常にフレームがあり、意図的に切り取られる。そして一度デジタル空間に放たれると、制御不能になる。
事例:
- ホッピー広告の過去の下半身強調写真:被写体は健康的色気を意識していたが、視覚的に消費される側面が強かった
- グラビアアイドルの個人Instagram投稿がヤフーニュースで再加工される
- 過去のヘアヌード写真がSNSで再拡散され続け、出版当時の芸術的意図が剥離
- 現代のAI生成レースクイーン:実在しないにもかかわらず、人間の反射は変わらず反応
記録物は一度野に放たれると制御不能。初動のコントロールしかできない。ゾーニングや文脈設計は、せいぜい拡散速度を遅らせる程度。
第三層:文化・職業(慣習と商品化の層)
レースクイーン、ラウンドガール、グラビアアイドルは、「商品に肉体を添える伝統」の上に成立している。
事例:
- 過去のビール広告:水着女性と「キレ」「のど越し」の並置
- モーターショー:車の曲線と女性の曲線の「相性」
- 格闘技:ラウンドガール、野放し・下品な扱いが残る
- ホッピー:女性社長の企業でも継続
これらは特定の文化・産業の中で正当化されてきた。そして今も一部では継続している。
社会の二重基準が存在する。同じ露出でも、広告ジャンルや職業文化によって社会的受け止め方は大きく異なる。
第四層:言葉・社会(主張と摩擦の層)
フェミニズムや倫理的批判も、構造として語られなければ、個人攻撃に変質する危険がある。
事例:
- 「なぜ露出する仕事をしているのに批判するのか」と炎上したレースクイーン
- フェミニズムが悪口化してしまった現象:主張の意図が摩擦だけを残し、世界を変えられない
- 過去のヘアヌード論争:被写体や表現者の意図は、受け手の反射的消費によって剥離される
両者に共通するのは、意図と受け手の反応が切断される現象である。
言葉は完全には効かない。でも摩擦を残せる。
四層の相互作用
| 層 | 特性 | 制御可能性 | 時間的影響 | 具体例 |
|---|---|---|---|---|
| 肉体 | 反射的、瞬間的 | ほぼ不可 | 短期 | レースクイーン下半身写真、JKラウンドガール炎上 |
| 記録 | 写真・AI・固定・再利用 | 初動のみ制御可 | 中期~長期 | ホッピー広告、AI生成、Instagram再加工 |
| 文化・職業 | 慣習・商品化・ジャンル特性 | 部分的 | 中期 | 格闘技・モータースポーツ、過去ビール広告 |
| 言葉・社会 | 主張・倫理・摩擦 | 限定的 | 長期 | フェミニズム悪口化、SNS批判、ヘアヌード論争 |
全ての層で、完全なコントロールは不可能だ。
第十章:実践的指針(不完全だが有効)
確実なものは何もない
この長い探求の末に、私が到達したのはニヒリズムではなく、謙虚さだ。
- 具体的なマナー → 不十分
- 構造批判 → 複雑すぎて実践不可能
- 当事者の声 → 聞けない、一枚岩でない
- 職業の存在 → 廃止派と存続派の対立
- 「おおらか」さ → 権力構造を隠す言葉
- 「お天道様」 → いくつもある
- 黄金律 → これさえ揺らぐ
もはや確実なものは何もない。全ての基盤が揺らいでいる。
でも、だからといって
「何も考えなくていい」わけではない。
「何をしてもいい」わけでもない。
揺らぎの中でも、いくつかのことは言える。
実践的な指針(不完全だが)
1. 自分の立場を自覚する
私は「お天道様が見ている」を自分の基準にする。匿名でも、誰も見ていなくても、自分が恥ずかしくないかを問う。
でもこれは私の価値観だ。唯一絶対ではない。他の人は違う「お天道様」を持つかもしれない。
2. 法律とプラットフォームのルールは守る
最低限のライン:
- 名誉毀損、わいせつ、ストーカー規制法
- SNSの規約
- これらは破らない
3. 明らかに有害なことは避ける
- 実在の人物への性的ハラスメント
- 下半身だけのアップなど、明らかに意図を逸脱した撮影・拡散
- 児童ポルノ的な表現
- ストーキング行為
4. 反応を観察する(可能な範囲で)
もしその人のSNSなら:
- どういうコメントに「いいね」しているか
- どういうコメントを削除・ブロックしているか
- 本人がどう振る舞っているか
5. 複数の視点を参照する
一つの倫理原則に頼らず:
- 自分の「お天道様」
- 相手の意図(推測できる範囲で)
- 社会的規範
- 法律
- これらを総合的に判断する
6. 完璧を求めない
- 迷うこともある
- 間違えることもある
- 全員を満足させることは不可能
- でも何も考えないよりはマシ
世の中には期待しない、でも声は出す
あなたの執筆したブログ記事(冒頭に引用)の結論は正しい。
「世の中に期待しても大きな意味はない。しかし、声を出すこと、問題提起をすることには、わずかな亀裂や余白を生む価値がある」
- 肉体の反射は止められない
- 写真・AI生成物は制御不能
- 職業文化は野放しと規制の間で揺れる
- 言葉は完全には効かない
でも、摩擦を残せる。
変わらぬ世界に声を残すこと、それが唯一誠実な行為だ。
最後に:対話の価値
この記事は、ある対話から生まれた。
最初、私は簡単な答えを出そうとした。「マナーを守りましょう」「人格を尊重しましょう」。
でも、一つ一つ、その答えは崩された。
- 「初めて見る人にどう尊重するのか」
- 「賞があるなら批評されるのでは」
- 「相性が良かったというのは本当か」
- 「全員が売られてきたわけではない」
- 「お天道様はいくつもある」
- 「黄金律さえ揺らぐ」
この対話を通じて、私は全ての確実性を失った。
でも同時に、何かを得た。
完璧な答えはない。確実な原則もない。でも、揺らぎの中で考え続けることはできる。
自分の判断が不完全だと自覚すること。 他者の価値観を認めること。 異なる「お天道様」との対話を試みること。 そして、考え続けること。
これが、全ての道徳が揺らいだ先に残るものだ。