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ロックは去り、渇望は残る:予測不能な「感動」を追い求める

おじいさんになったからか?(イメージ)

かつて、私の心を揺さぶり、時代を鮮やかに彩った「ロック」。T.REXの「20th Century Boy」がリリースされて半世紀以上が過ぎた今、私は、あの頃の「脳髄を直撃するような衝撃」を、どこで感じることができるのだろうか? そして、「感動」という概念そのものは、私にとってどのような意味を持つようになったのだろうか?

 

変容するロックの風景:祝祭の裏に隠された、私自身の問い

現代の音楽フェスティバル、特に夏の大型ロックフェスは、日本各地で地域を巻き込む一大イベントへと変貌を遂げた。老若男女が集い、一体となって音楽を享受するその光景は、さながら地域の伝統的な「盆踊り」のようだ。多くの人々が集い、非日常的な空間で一体感を分かち合う「祝祭性」は確かに魅力的だ。

しかし、その一方で、かつてロックが内包していた「反骨精神」や「既存の体制への挑戦」といった鋭さは、薄れてしまったように、私には見える。若者たちの代弁者であったロックは、今やその役割を他のジャンルに譲り渡し、ジャズやクラシック音楽のように、特定の愛好家層に深く支えられる「1ジャンル」として成熟した。青春時代にロックと共に育った中高年層や、特定のバンドを深く掘り下げる「コアなファン」がその中心を担う。かつて広範に存在した「ライト層」が減少したことで、「ロックは一部の人々のもので、私からは遠い」という見方もできるようになった。

この変化は、時代の必然なのかもしれない。だが、私の心には、「あの頃の衝撃は、もう味わえないのだろうか?」という、拭い去れない問いと、かすかな寂しさが残っている。

 

多様化する音楽シーンと、満たされない「乾き」の正体

インターネットとデジタル技術の発展は、音楽シーンに未曾有の多様性をもたらした。K-POPやJ-POPのアイドルは世界を席巻し、ヒップホップやR&Bは社会に深く根ざし、EDMは大規模なフェスで熱狂を生み出している。あらゆる音楽が指先一つで手に入る時代だ。

しかし、この情報と選択肢の洪水のなかで、私はある種の「満たされない乾き」を感じることがある。いくら多様な音楽に触れても、どこか「面白くない」「退屈だ」という感覚が拭えないのだ。これは単なる好みの問題ではない、私自身の深い問題なのかもしれない。現代の多くの音楽は、完璧に計算され、精巧にプロデュースされている。その洗練された美しさは評価されるべきだが、一方で、かつてのロックが持っていたような「予測不能な不完全さ」や、「剥き出しの感情が爆発するような生々しさ」を私に感じさせにくい側面も持つ。私は、意識しないうちに、既存の枠を超え、理屈抜きで心身を揺さぶるような、「脳髄を直撃する、圧倒的な何か」を、心の深い場所で求め続けているのだ。

 

「予測不能な衝撃」の探索と、「不可能」という覚悟

では、この「脳髄直撃するような衝撃」は、一体どこに見出せるのだろうか?

それは、もはや特定の音楽ジャンルの中だけでは語れない。文脈で作り込まれた「芸術の内側」でもなければ、ルールと勝敗に縛られる「スポーツ」の競技性でもない。かつてはわずかに興味もあった「薬物」のようなことでもない。私が求めているのは、「明確な形のないもの」であり、「見たことも聞いたこともないような体験」なのだ。

このような「形のないもの」を求める探求は、時に「不可能」という感覚を私に突きつける。目標が明確でなく、どこに向かえばいいのか分からない。たとえ偶然出会ったとしても、それが本当に探し求めていたものなのか、どう判断すればよいのかも不明瞭だ。このような途方もない探求は、時に私に深い疲労と絶望をもたらし、残された人生の時間の中でさえ、「退屈さ」を増幅させる要因となる。日々の生活は忙しいのに、心の奥底が満たされずにいる感覚は、この根源的な渇望の裏返しでもあるのだ。

そして、「不可能」という認識は、私に一つの覚悟を迫る。それは、安易な答えがない世界で、私はどう生きるのかという、私自身の人生への問いかけなのだ。

 

「問い」を抱き続けることの深淵:退屈と寂しさの、その先の光

このような「不可能」な探求に直面し、心に「退屈」や「寂しさ」を感じる時、私はどうすればよいのだろうか。

しかし、「寂しさ」という感情は、決してネガティブなだけではないかもしれない。それは、私の心がまだ「何か」を深く求め、感受性が鈍っていないことの証拠であるのか、私の内なる「渇望」の裏返しなのかもしれない。そして、この「不可能」という感覚の奥底には、重要な示唆が隠されている気がする。それは、私が本当に求める「圧倒的な体験」が、既存の知識やカテゴリーに収まらない、より根源的な次元にあることを示しているのだろう。

人生において、私は常に「何なのか?」という問いを抱いている。生きる意味、幸福とは何か、そして真の感動とは。これらの問いに、誰もが納得する普遍的な「答え」は存在しないのかもしれない。しかし、その問いを抱き続けること自体が、私を突き動かし、内面を深く掘り下げ、私自身の人生に独自の意味と奥行きを与える原動力となる。

「脳髄直撃」の衝撃もまた、答えを「探し出す」ものではなく、その問いを静かに抱き続け、心が最も無防備になった時に、予期せぬ瞬間に「訪れる」ものなのかもしれない。それは、大音量のフェスとは異なる、日常の微細な光や音、あるいは人との一瞬の交流の中に、突如として現れる、言葉にならない感動かもしれないのだ。

 

おわりに:退屈という感情が指し示すもの、そして私自身の新たな旅立ちへ

私は、人生のどこかで、この「脳髄直撃」の渇望を抱え、そして、その答えが見つからないことに「退屈」や「寂しさ」を感じているのかもしれない。しかし、その「退屈」という感情が、私自身の奥底にある、真の欲望の存在をそっと指し示しているのかもしれないと、今は思う。それが、明確な羅針盤となり得るのか、あるいは単なる心の揺らぎに過ぎないのか、今はまだ分からない。

私の人生はまだ続く、あと30年くらい。退屈と寂しさの向こう側に、私だけの「脳髄直撃」の体験が待っていることを、心から願っている。

 

私は、いつか感動のあまりいつか「嬉ション」まで行きたいのだ。