Abtoyz Blog

ニュースの裏側に潜む「構造」を、独自の視点と個人的な思い出で読み解く考察ブログ。テクノロジーから都市論、文化史まで、抽象的な事象を言語化し、変化の激しい現代を賢く生き抜くための視座を提示します。

最後の証人——日本デザインセンターと、60年代グラフィックデザインの奇跡

烏口を知らず、極細の筆で息を止めながら描いた(イメージ)

2026年2月23日、永井一正が逝った。96歳だった。

訃報を告げるニュースは、「札幌五輪マークのデザイナー」「JA、アサヒビールのロゴを手がけた巨匠」という言葉で彼を紹介した。間違いではない。しかしその紹介文には、決定的に欠けているものがある。

永井一正は、日本のグラフィックデザインがもっとも「熱」を持っていた時代の、最後の生き証人だった。

 


銀座に生まれた「異様な場所」

1960年、東京・銀座に奇妙な会社が誕生した。日本デザインセンター(NDC)、通称「デザセン」。トヨタ、東芝、アサヒビールなど複数の大企業の出資によって作られたその会社の目的は、一言で言えば「各社の宣伝部を共同で持つ」ことだった。

今の感覚で言えば、デザインのアウトソーシング会社である。しかし当時、この試みは革命的だった。高度成長期の入口に立った日本企業が、はじめて「デザインは武器になる」と認識した瞬間がそこにあった。

設立の中心には亀倉雄策、原弘、田中一光らがいた。亀倉は後に1964年東京五輪の鮮烈なポスターで世界を驚かせる、日本グラフィックデザインの開拓者だ。

永井一正は、この創立に大阪から参加した一人だった。

 


デザインを「正規に勉強しなかった」男

永井一正の経歴には、一つの奇妙な事実がある。彼はデザインを、正規に学んだことがなかった。

東京藝術大学で彫刻を学んでいた彼は、戦時中の栄養失調が原因で眼底出血を患い、医師に失明の可能性を告げられる。休学して大阪に帰った彼を待っていたのは、父の縁で職を得た大和紡績のデザイン室だった。「やったことないけど、ぶらぶらしていても仕方ない」と引き受けた仕事が、グラフィックデザイナーとしてのキャリアの出発点になった。

道具すら知らなかった。細い線を引くための烏口(製図ペン)の存在を知らず、代わりに極細の筆を使い、息を止めながら描いたというエピソードが残っている。

その「知らなさ」が、彼の強みになった。永井自身はのちにこう語っている。「『永井のデザインは一風変わってる』とよく言われるんですけども。それは正規のデザインの勉強をしなかったということと、創作に何よりも大切な、自由な感覚を全面的に信じているからだと思います」。

 


同じフロアに横尾忠則がいた

NDCが面白い場所だったのは、そこに集まった人間の多様さにある。

永井が創立に参加した1960年、少し遅れて入社してきた若者がいた。兵庫県の田舎出身で、関西弁にコンプレックスを抱え、自分をどうアピールすればいいかわからなかったという——横尾忠則だ。

さらに同時期、宇野亜喜良もNDCに在籍していた。後にサイケデリックなアングラ演劇ポスターで一世を風靡する「黄金の左腕」が、まだ20代の若者として、同じオフィスにいた。

銀座の中心地にあったNDCのフロアには、こうして戦後日本が生んだ異才たちが、同じ空気を吸いながら働いていた。永井一正、横尾忠則、宇野亜喜良。この三人が同時に存在した場所が、かつて実在したのだ。

宇野はのちにその頃の銀座の記憶をこんな風に語っている。近所のライトパブリシティに和田誠がいて、昼時に中華料理屋に行くと顔を合わせた。輸入書を扱う本屋で会うこともあった。「名前を聞くと作品がまず浮かぶという、ちょっと面白い時代。いい時代に面白い友人を作れてよかった」と。

60年代の銀座は、日本のグラフィックデザインにとっての「坩堝(るつぼ)」だった。

 


1964年、才能たちの「分岐点」

1964年、東京オリンピックの年、NDCに一つの分岐点が訪れる。

横尾忠則が退社した。宇野亜喜良と原田維夫とともに「スタジオ・イルフィル」を結成するためだ(もっとも、この事務所は翌年には解散している)。横尾はその後、寺山修司の天井桟敷、土方巽の暗黒舞踏と関わり、アングラ演劇の世界へ深く入っていく。三島由紀夫に影響を受け、神秘主義とサイケデリアへ傾斜し、1972年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)で個展を開き、世界の「横尾忠則」になった。

宇野亜喜良もNDCを去り、唐十郎の状況劇場など60年代アングラ演劇の世界へ。繊細で妖艶なイラストレーションで、60〜70年代のサブカルチャーを象徴する存在になった。

彼らは「飛び出した」。商業デザインの枠を軽々と超えて、より自由な場所へと向かった。

一方、永井一正はNDCに残った。

 


「残った男」の選択

この選択の意味を、当時の横尾はこんな言葉で語っている。「多くのデザイナーは次の仕事が来なくなると考えて、妥協してでも仕事をやり通す。でも僕が思うに、そうやっていると次第に妥協の連鎖運動が始まって自分のやりたいことができなくなる」。

これは商業デザインへの批判にも聞こえる。しかし永井の「残る」という選択は、妥協ではなかった。

永井は「破壊」をその哲学の核に置いていた。「破壊の中にしか創造はない。自分を裏切り、人を裏切らなきゃいけない」——これは彼が繰り返した言葉だ。商業の文脈の中に留まりながら、自分自身を何度も壊し、作り直し続けた。幾何学的な抽象から、写真との組み合わせへ、そしてポスターの表現形態を生涯で8回も変えた。

1975年には日本デザインセンターの代表取締役社長に就任し、後にJAGDA(日本グラフィックデザイナー協会)の会長も務めた。「制度の中枢」に入った男は、しかし内側から絶えず何かを壊し続けようとしていた。

 


57歳、崖から飛び降りる決断

1987年、永井一正は大きな賭けに出た。

「永井一正は抽象のデザイナー」——そう見なされることで一定の評価を得ていた彼が、ポスター「JAPAN」を機に、動物を題材にした具象作品へと転換する。手描きの線と緻密な点描で描かれた生命体のシリーズ、「LIFE」の始まりだった。

「何を言われるかわからないけれど、思い切って崖から飛び降りるような気持ちで、毎回大なり小なり破壊しながらやってきています」と彼は語った。

96歳になってもなお、LIFEシリーズは続いた。原研哉は永井の晩年の作品について、こんな言葉を残している。「生と宇宙の深淵を見つめる感覚はますます研ぎ澄まされ、その仕事は毎年、間違いなくその到達点の標高を上げている」。

 


彼が遺した問い

永井一正は、現代のデザインに対して、一つの問いを残していった。

「亀倉雄策、田中一光、福田繁雄は、それぞれが個性的で全然似てないんです。今の人たちはものすごく上手いんだけど、何となく気配が似てる。見たら忘れられないという個性がない」。

この言葉は、追悼記事の文脈で読むと、単なる老人の嘆きには聞こえない。NDCという「坩堝」が、なぜ横尾忠則と宇野亜喜良と永井一正という、互いに似ても似つかない才能を同時に生み出せたのか——その問いへの答えでもある。

あの時代には、教わる前に感じる場があった。競い合う理由があった。商業の文脈と反商業の衝動が、同じ場所で激しく摩擦していた。その熱が、あの世代の「個」を鍛えたのかもしれない。

永井は去り、横尾忠則はまだ生きている。1936年生まれの彼は今も画家として旺盛に創作を続ける。宇野亜喜良も1934年生まれ、90代でなお現役だ。だが60年代、同じフロアで息をしていた「あの時間」は、もう誰の記憶にもない。

日本デザインセンターは今も銀座にある。現在の代表は原研哉。

最後の証人が逝った。次の証人は、もういない。

 


 

永井一正(1929年4月20日 - 2026年2月23日)グラフィックデザイナー。日本デザインセンター最高顧問、JAGDA特別顧問。作品はニューヨーク近代美術館、東京国立近代美術館ほか世界20か国以上の美術館に収蔵されている。