
12月末、スーパーの店頭を埋め尽くす豪華な「寿司桶」。この光景は単なる商習慣ではなく、昭和から平成にかけて起きた「流通革命」の到達点です。
日本の正月の風景を、自らの手で書き換えた一人の実業家、中内㓛(なかうち いさお)。彼がいかにして「伝統」を「利便性」へと塗り替えたのか。そのプロセスを歴史的事実に基づき検証します。
1. 食卓の主役交代:保存食から「生鮮食品」へ

かつての正月料理の主役は、三が日の保存を目的とした「おせち」でした。しかし、1970年代から80年代にかけて、ダイエーを筆頭とするスーパーマーケットがこれを劇的に変化させます。
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おせちの分解と単品販売: かつては家庭で作るのが当然だったおせちを、ダイエーは「蒲鉾」「栗きんとん」「黒豆」といった単品パッケージとして大量に販売しました。これにより、主婦は「全てを作る」必要がなくなり、正月料理のハードルが劇的に下がりました。
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寿司・カニの「正解化」: 保存食に対し、中内氏は「鮮度」という価値を持ち込みました。独自のコールドチェーン(低温物流網)の整備により、年末年始でも大量の「マグロ」や「カニ」を店頭に並べることを可能にしました。これが「正月の贅沢=新鮮なお寿司」という新しい消費モデルを定着させたのです。
2. 世代交代の呼び水:ニューファミリーが求めた「お寿司」

中内氏が「正月にお寿司」を強力に推進した背景には、当時の人口動態への鋭い洞察がありました。
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子供たちが喜ぶ食卓へ: 伝統的なおせち料理は、子供や若い世代にとっては必ずしも「御馳走」ではありませんでした。中内氏は、戦後に生まれた「ニューファミリー層」が、子供と一緒に楽しめる華やかな食卓を求めていることを見抜いていました。
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「ハレの日」の民主化: 職人の技術をマニュアル化し、大量供給を可能にすることで、一部の特権階級のものだった「回らない寿司」のクオリティを、誰もが家族で囲める「寿司桶」として標準化したのです。
3. 元旦営業という「社会構造」への挑戦

日本の商業史において、中内氏の最も象徴的な行動は「正月の休業慣習」を打破したことでした。
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1972年の衝撃: 1972年(昭和47年)、ダイエーは業界に先駆けて一部店舗で「元旦営業」を敢行しました。当時の日本は「正月は全ての商店が休む」のが常識でしたが、中内氏は「お客様が望むなら、店を開けるのが流通の義務だ」と断じました。
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ライフスタイルの変容: 店が開いていることで、正月は「静かに過ごす儀式」から「家族で買い物やレジャーを楽しむイベント」へと変質しました。今の私たちが元旦からショッピングモールへ行けるのは、中内氏がこじ開けたこの扉があったからです。
4. なぜ彼はそこまで「正月」にこだわったのか
中内氏の行動原理には、戦時中の過酷な飢餓体験からくる「豊かな生活を、国民全員が享受できるようにしたい」という強烈な信念がありました。
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価格決定権の奪還: 「価格はメーカーが決めるのではなく、消費者が決めるべきだ」という信念のもと、既存の問屋制度やメーカーの価格維持政策に真っ向から挑戦しました。高価だった食材を、誰もが手に取れる価格で大量販売したことは、戦後日本の「中流意識」を強固なものにしました。
結論:私たちが受け継いでいる「中内氏のビジョン」

2025年現在、ダイエーという名称は減少しましたが、彼が構築した「正月のライフスタイル」は、日本の小売業の基礎として完全に定着しています。
私たちが元旦から明るい店内で買い物をし、家族でお寿司を囲む。その穏やかな日常の背景には、かつて「生活者こそが主役である」と信じ、古い壁を突き破った一人の男の執念があったことは、歴史的な事実です。
今年のお正月、食卓に並ぶ鮮やかなお寿司。その一貫には、日本の戦後を豊かさへと導いた「流通の父」の情熱が宿っているのです。