Abtoyz Blog

最新のトレンドや話題のニュースなど、気になることを幅広く発信

ヒョウ柄vsボーダーの終焉――なぜ街から『対立』が消え、Webは『右か左か』に分かれたのか

身体で威嚇する者と、知性で拒絶する者(イメージ)

序文:平坦な戦場にて

2025年、日本の都市空間は、かつてないほど「視覚的な平穏」に包まれている。 一歩街へ出れば、老若男女を問わず、多くの人々がユニクロやGUといった「中立的(ニュートラル)」な衣服を纏い、背景に溶け込むように行き交う。総務省の家計調査が示す通り、被服及び履物への支出は長期的減少傾向にあり、衣服による自己主張はもはやマジョリティの関心事ではない。

しかし、この静寂は平和の証なのだろうか。それとも、かつて私たちが全身で表現していた「思想」や「反抗」が、肉体という器を捨て、別の場所へ移り住んだだけなのだろうか。

私たちは今、あの「ヒョウ柄とボーダー」が火花を散らした時代の終焉を見届け、その果てに辿り着いた「情報の檻」の中で、新たな分断の時代を生きている。

 

第一章:路上の二極化――「肉体の威嚇」と「知性の防壁」

1990年代から2000年代初頭にかけて、日本の都市空間は「視覚的思想」の衝突現場であった。

当時、街を二分していたのは、剥き出しの「肉体派(ヒョウ柄)」と、内省的な「知性派(ボーダー)」という二大カテゴリーである。 小室哲哉氏等のポップアイコンに牽引された層は、欲望に忠実な「生命力」を記号とし、外向的なエネルギーで街を「威嚇」することで自らの存在を肯定した。対照的に、特定のサブカルチャーへの精通を「知的な防壁」とした層は、アニエスベー等の文脈を解さないマジョリティを「ダサい」と拒絶することで自らを定義した。

この二つの勢力の「断絶」こそが、当時の文化的な熱量の源泉であり、若者たちが自らのアイデンティティを確認するための、身体的な儀式であった。

 

第二章:ユニクロという「巨大な平原」での無条件降伏

2010年代以降、この「美学の戦争」は、SPA(製造小売業)の圧倒的な効率性の前に終焉を迎えた。 ユニクロやGUは、かつて特定の階層しか持てなかった「洗練」を民主化し、同時に「記号」としての意味を剥ぎ取った。現代において、衣服はもはや思想を語る「武装」ではなく、社会的な摩擦を避けるための「カモフラージュ(迷彩)」へと変質した。

また、ZOZO等のリユース市場の最適化は、ブランドの希少性をデータへと解体した。指先一つで、かつての高級ブランドが数千円で届く世界において、服に「命をかける」コストパフォーマンスは著しく低下した。 かつての若者が「自分だけは違う」と信じて選んでいた尖ったスタイルさえも、今の視点で見れば、単にシステムが用意した「反抗のパッケージ」を消費していたに過ぎない。「所詮は全員、大衆であった」という冷徹な結論が、現代のフラットな街並みには刻まれている。

 

第三章:情報の檻――「右か左か」という新しい分断

肉体を脱いだ思想が、自ら入った檻(イメージ)

身体による自己表現が「中和」された一方で、人間の抱える帰属欲求は、物理的な街角から、デジタル空間へと完全に「移転」した。

現代の都市住民は、路上では「中間」を演じるが、一歩スマホの画面を開けば、そこにはかつての「ヒョウ柄 vs ボーダー」を遥かに凌ぐ、凄惨な分断が広がっている。それが、「右か左か」という政治的思想の衝突である。 かつてのファッションの対立には、まだ相手の顔が見える「美学」があった。しかしWeb上の分断は、都市の虚無を埋めるための実存的な闘争に近い。

アルゴリズムは、各個人の好みに合わせた「情報の檻」を構築し、自分と同じ意見だけを摂取させ、異端者を「悪」として断罪させる。肉体という檻を脱した精神は、より強固な「思想の檻」に自ら入り込んでいる。街の「平穏な中間層」と、Web上の「過激な分極化」。この二重構造こそが、現代社会の歪なポートレートである。

 

第四章:異物の変容――整形公表と「孤立する富裕層」

最後の差異は、身体そのものに刻まれる(イメージ)

すべてがフラットに塗り潰された世界において、わずかに残された「異物感」を放つ現象が二つある。

一つは、「美容整形の公表」を厭わない若者たちである。 衣服という「着脱可能な記号」では差別化ができなくなった時代、彼らは自らの「肉体そのもの」を加工し、そのプロセスを開示する。これは、システムに回収されない最後の一線を、自らの身体に刻もうとする過激な自己定義の試みである。

もう一つは、トレンドから逸脱した富裕層の装いである。 「他人と被らないこと」を至上命題とする彼らの格好は、共感や拡散を前提とした「トレンド」の論理から切り離されている。しかし、そこに文化的な文脈(コア)がない場合、それはかつての洗練にも生命力にも辿り着けない、ただの「おしゃれに見えないノイズ」として都市を漂っている。

 

第五章:結論――濃厚な関係を必要としない「静かな接続」

極端だった世界を、窓越しに眺める時代(イメージ)

かつて「ボーダー側」の知性を守り、ストリートの熱狂を熱く見つめていた個人は、いま、どこに辿り着いたのか。

気づけば、私たちはもう、他者と「濃厚な人間関係」を築くことを必要としなくなっている。 家族という最小単位の共同体と、24時間Webを介して供給される「情報の海」に安住し、生身の他者と美学をぶつけ合うエネルギーを節約している。一日中Webに接続していることで、私たちは「他者性の過剰摂取」状態にあり、現実の路上には「これ以上の刺激を必要としない安息」を求めているのである。

モヒカンもスケーターも消え、オタクさえも概念として拡散し、そのコアが見えなくなった。 私たちは「中間」という安全な制服を着て、スマホという名の窓から、かつて自分たちがいた「極端な世界」を眺めている。「右か、左か」「ヒョウ柄か、ボーダーか」。 そんな問いに必死に答えを出そうとしていたあの頃の熱量を、私たちは少しだけ羨ましく思いながら、今日も静かに「中間の広場」を歩き続けている。