
かつて、私はこう考えていた。
雑誌というメディアは縮小する。しかし、ファッション雑誌だけは最後まで残るのではないか、と。
理由は単純だった。ファッションには「ルック」が必要だからだ。服は文章では伝わらない。大判の紙、写真、ページ構成──それらが揃って初めて、ファッションは成立する。そう信じられてきた。
だが、この予測は外れた。
ファッション雑誌は、他ジャンルよりも早く、しかも静かに「不定期刊行」へと追い込まれた。形式上は残っていても、実質的にはメディアとしての役割を終えているものが多い。
なぜなのか。
「ルックが必要」という神話が崩れた
ファッション雑誌が最後まで残ると考えられていた最大の根拠は、「視覚メディアとしての不可欠性」だった。
しかし現実には、
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Instagram
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TikTok
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ECサイト
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インフルエンサーの私服投稿
これらが、雑誌の役割を完全に代替してしまった。
しかもそれは、劣化コピーではない。
むしろ、
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更新はリアルタイム
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モデルは遠い存在ではなく「自分に近い成功例」
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購入導線がそのまま接続されている
という点で、雑誌よりも圧倒的に実用的だった。
ここで重要なのは、ルックが不要になったのではないという点だ。
「雑誌で見るルック」である必要がなくなったのである。
問題は「老眼」ではない
一時期、よく語られた説明がある。
「紙の雑誌は、老眼世代向けになりすぎた」
しかし、これは本質ではない。
問題になっているのは、視力や年齢ではなく、メディア環境そのものだ。
雑誌が無意識のうちに前提としていたのは、
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紙を読むという行為
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ページをめくる時間
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月刊という更新リズム
といった、紙媒体特有の読書様式だった。
一方で、主要な購買層は、
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スマホ前提
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フィード型の情報取得
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即時判断・即時離脱
という、まったく異なる環境に生きている。
ここで起きた断絶は、身体の問題ではない。生活リズムと情報接触様式の断絶である。
権威もモードも、最初から必要ではなかった
もう一つの誤算がある。
それは、
権威やモードが、ファッションを動かしている
という前提そのものだ。
実際には、多くの人にとって重要だったのは、
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自分に近い体型
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自分に近い生活
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自分でも届きそうな成功例
だった。
この構造が可視化された結果、
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タレントの副業アパレル
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インフルエンサー発ブランド
が急速に拡大した。
雑誌が提示していた「遠い理想」は、必ずしも購買を生まなかった。
服は無限に手に入る。しかし、誰も儲からない
現在、服そのものはかつてないほど安価で、無限に流通している。
にもかかわらず、
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服飾デザイナーは食えない
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編集者という職業は見えなくなった
という矛盾が起きている。
これは偶然ではない。
供給が無限化した瞬間、意味づけの仕事は最も先に崩壊するからだ。
それでも残っている雑誌の正体

では、なぜ一部のファッション雑誌は今も存在しているのか。
ここで重要なのは、
雑誌が残っているのではない
という点である。
残っているのは、
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雑誌という形式を借りた事業体
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ブランドを媒介にした受託制作
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イベント・展覧会・フェス運営
といった周辺ビジネスだ。
紙の売上そのものは、ほとんどの場合、
黒字ギリギリ、あるいは赤字
である。
「黒字」とは何を指しているのか
ここで言う黒字とは、
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雑誌単体の純粋な利益
ではない。
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企業案件
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タイアップ
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受託制作
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イベント収益
これらを含めた総合収支で、かろうじて成立しているケースがほとんどだ。
つまり、
雑誌が黒字なのではなく、雑誌を入口にした事業が黒字
なのである。
編集者はどこへ行ったのか
では、元の意味での「編集者」は消えたのか。
答えは、半分だけYesだ。
彼らは、
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YouTube制作
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ポッドキャスト
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イベント企画
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ブランドコンサル
といった形で分散した。
編集という行為自体は消えていない。
編集が「職業」から「機能」へと解体されただけである。
メディア業界に夢は残っているのか
正直に言えば、
かつての意味での夢や希望は、ほぼ残っていない
これは事実だろう。
文化を動かし、名前が残り、しかも儲かる──
この三点が同時に成立する確率は、現代では極端に低い。
昭和には、それが「職業」として成立していた。
だがそれは、
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成長社会
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メディアの希少性
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文化と資本が同じ方向を向いていた
という時代ボーナスの産物だった。
結論:文化を動かしたいなら、金は別で稼げ
では、今どうすればよいのか。
答えは冷酷だが明確だ。
金は別口で稼ぐしかない。
出版社やテレビ局に入れば文化を動かせる、という時代は終わった。
熱気は、
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一部の制作現場
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小さなイベント
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分散した個人活動
に散らばっている。
名前が残るかどうかは、副産物にすぎない。
それでも続ける人だけが、文化の端を、わずかに動かす。
雑誌が終わったのではない。
雑誌に託されていた幻想が、静かに終わっただけなのだ。