
全国的な物語は、すでに壊れていた。
1960年代末、
全共闘、寺山修司、そして『ガロ』が行ったのは、
体制への反抗というよりも、
「意味が共有されている」という前提そのものの破壊だった。
だが、破壊だけでは文化は続かない。
壊されたあと、
人はどこに身を置き、
何を拠り所に生きていくのか。
1970年代のサブカルチャーは、
その問いに対する、
極めて静かで、しかし決定的な回答だった。
それは大きな主張でも、
革命的なスローガンでもない。
もっと小さく、
もっと個人的で、
もっと説明されない世界への移行だった。
1|「大きな物語」が壊れたあとの空白
第7回で見た通り、
1960年代末、日本社会は一度、
「分かり合えるはずだ」という幻想を手放している。
政治も、芸術も、マンガも、
もはや全国共通の意味を回復しようとはしなかった。
しかし、ここで重要なのは、
70年代は「無意味の時代」ではなかったという点だ。
意味は失われたのではない。
分割されたのである。
全国を覆っていた一つの物語は消え、
代わりに、
・ごく少人数にしか通じない感覚
・説明されない前提
・内輪でのみ成立する文脈
が、無数に生まれ始める。
これが、後に「サブカル」と呼ばれるものの正体だ。
2|赤瀬川原平という「基本OS」

この分岐の起点にいた人物が、
赤瀬川原平である。
赤瀬川は、
前衛芸術家であり、
作家であり、
批評家であり、
そして何より、
評価軸そのものを疑い続けた人物だった。
彼はハイレッド・センターの一員として、
既製の制度や価値をズラす行為を繰り返した。
だが、赤瀬川の本当の影響力は、
作品以上に「教え方」にあった。
3|美学校──技術ではなく「見方」を教える場所

1970年代、赤瀬川は美学校で教鞭をとる。
ここで彼が教えたのは、
デッサンの上達法でも、
正しい表現技法でもない。
彼が繰り返したのは、
きわめて単純な問いだった。
「それは、うまいから面白いのか?」
「下手だから、ダメなのか?」
赤瀬川は、
「うまい/下手」という評価軸を、
否定したのではない。
信用しなかったのである。
まず感じる違和感があり、
技術はそのあとに来る。
この順序の転倒こそが、
70年代サブカルの基本OSとなる。
4|南伸坊──「弟子」が編集長になるまで
赤瀬川の教室には、
後に日本文化を静かに変えていく人物たちが集まっていた。
その一人が、南伸坊である。
南は赤瀬川の「生徒」というより、
明確に弟子だった。
彼は後に、
マンガ雑誌『ガロ』の編集長を約7年間務める。
重要なのは、
南が『ガロ』を
「主張の場」にしなかったことだ。
彼は、
・分かりやすさを強制しない
・完成度を絶対視しない
・説明しない作品を排除しない
という、
編集方針そのものを思想として実装した。
5|久住昌之──赤瀬川教室から『ガロ』へ
美学校で赤瀬川に師事し、
南伸坊と知り合い、
その後のサブカルを決定づけた人物が、久住昌之である。
久住は、美学校の同期生・泉晴紀と組み、
「泉昌之」として『ガロ』に漫画を持ち込み、
デビューする。
ここで重要なのは、
久住が「マンガ家になろう」として
この道に入ったわけではない点だ。
彼は、
・絵が特別うまいわけでもない
・物語構成が巧みなわけでもない
しかし、
成立してしまう感覚を持っていた。
この「成立してしまう」が、
70年代サブカルの核心である。
6|『ガロ』は思想ではなく「通過点」だった

『ガロ』は、
特定の思想を広めた雑誌ではない。
むしろ、『ガロ』がやったのは、
「排除しないこと」
それだけだった。
分からない作品も載せる。
下手に見える絵も通す。
読者に不安を残しても気にしない。
その結果、
・読む側が試される
・文脈を知らないと意味が取れない
・だが、刺さる人には深く刺さる
という構造が生まれる。
これは、
テレビ文化の完全な対極だった。
7|「うまい/下手」では測らない → ヘタウマへ

赤瀬川が揺さぶった
「うまい/下手」という評価軸は、
70年代にはまだ言葉を持たなかった。
それが80年代に入り、
「ヘタウマ」という名前を得る。
重要なのは、
ヘタウマは新しい美学ではないという点だ。
それは、
すでに存在していた感覚に
ラベルが貼られただけ
だった。
70年代にインストールされたOSが、
80年代に「見た目」として可視化された。
8|ミニ文化とは「安全な小世界」ではない

70年代サブカルは、
しばしば「内向き」「小規模」「オタク的」と評される。
だが、それは逃避ではない。
むしろ、
・全国的に通じる意味を信用しない
・分かり合えない前提でつながる
・説明を省略する
という、
極めてラディカルな態度だった。
小さな物語とは、
弱い物語ではない。
「共有されないこと」を前提にした、
新しい生存戦略だった。
9|現代との接続──なぜ炎上は避けられないのか
2020年代のSNSでは、
文脈が一瞬で切断される。
70年代サブカルは、
最初から文脈を限定していた。
つまり、
70年代:
「分からない人がいる」前提で作る
2020年代:
「分からない人が必ず現れる」構造で拡散する
この違いが、
炎上を必然にしている。
結語|分岐の時代が始まった
70年代は、
統合の時代ではない。
分岐の時代である。
赤瀬川原平というOSのもと、
美学校、『ガロ』、弟子たちのネットワークを通じて、
日本文化は静かに枝分かれを始めた。
この分岐は、
やがて80年代の音楽へ、
90年代の表現へ、
そして2020年代の炎上へとつながっていく。
次回、第9回では、
このOSが音楽という領域でどう起動したのかを描く。
次回予告
第9回:70s→80s 音楽とシティポップの前史
──大滝詠一・坂本龍一・YMOは何を“軽くした”のか
技巧でも、思想でもない。
「距離感」が音楽を変え始める。