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【第8回】70年代サブカルの形成──赤瀬川原平と『ガロ』が生んだ「ミニ文化」の正体

70年代都市の文化的熱気(イメージ)

全国的な物語は、すでに壊れていた。

1960年代末、
全共闘、寺山修司、そして『ガロ』が行ったのは、
体制への反抗というよりも、
「意味が共有されている」という前提そのものの破壊だった。

だが、破壊だけでは文化は続かない。

壊されたあと、
人はどこに身を置き、
何を拠り所に生きていくのか。

1970年代のサブカルチャーは、
その問いに対する、
極めて静かで、しかし決定的な回答だった。

それは大きな主張でも、
革命的なスローガンでもない。

もっと小さく、
もっと個人的で、
もっと説明されない世界への移行だった。

 


1|「大きな物語」が壊れたあとの空白

第7回で見た通り、
1960年代末、日本社会は一度、
「分かり合えるはずだ」という幻想を手放している。

政治も、芸術も、マンガも、
もはや全国共通の意味を回復しようとはしなかった。

しかし、ここで重要なのは、
70年代は「無意味の時代」ではなかったという点だ。

意味は失われたのではない。
分割されたのである。

全国を覆っていた一つの物語は消え、
代わりに、

・ごく少人数にしか通じない感覚
・説明されない前提
・内輪でのみ成立する文脈

が、無数に生まれ始める。

これが、後に「サブカル」と呼ばれるものの正体だ。

 


2|赤瀬川原平という「基本OS」

赤瀬川とハイレッドの活動(イメージ)

この分岐の起点にいた人物が、
赤瀬川原平である。

赤瀬川は、
前衛芸術家であり、
作家であり、
批評家であり、
そして何より、

評価軸そのものを疑い続けた人物だった。

彼はハイレッド・センターの一員として、
既製の制度や価値をズラす行為を繰り返した。

だが、赤瀬川の本当の影響力は、
作品以上に「教え方」にあった。

 


3|美学校──技術ではなく「見方」を教える場所

美学校での師弟風景(イメージ)

1970年代、赤瀬川は美学校で教鞭をとる。

ここで彼が教えたのは、
デッサンの上達法でも、
正しい表現技法でもない。

彼が繰り返したのは、
きわめて単純な問いだった。

「それは、うまいから面白いのか?」
「下手だから、ダメなのか?」

赤瀬川は、
「うまい/下手」という評価軸を、
否定したのではない。

信用しなかったのである。

まず感じる違和感があり、
技術はそのあとに来る。

この順序の転倒こそが、
70年代サブカルの基本OSとなる。

 


4|南伸坊──「弟子」が編集長になるまで

赤瀬川の教室には、
後に日本文化を静かに変えていく人物たちが集まっていた。

その一人が、南伸坊である。

南は赤瀬川の「生徒」というより、
明確に弟子だった。

彼は後に、
マンガ雑誌『ガロ』の編集長を約7年間務める。

重要なのは、
南が『ガロ』を
「主張の場」にしなかったことだ。

彼は、

・分かりやすさを強制しない
・完成度を絶対視しない
・説明しない作品を排除しない

という、
編集方針そのものを思想として実装した。

 


5|久住昌之──赤瀬川教室から『ガロ』へ

美学校で赤瀬川に師事し、
南伸坊と知り合い、
その後のサブカルを決定づけた人物が、久住昌之である。

久住は、美学校の同期生・泉晴紀と組み、
「泉昌之」として『ガロ』に漫画を持ち込み、
デビューする。

ここで重要なのは、
久住が「マンガ家になろう」として
この道に入ったわけではない点だ。

彼は、

・絵が特別うまいわけでもない
・物語構成が巧みなわけでもない

しかし、
成立してしまう感覚を持っていた。

この「成立してしまう」が、
70年代サブカルの核心である。

 


6|『ガロ』は思想ではなく「通過点」だった

『ガロ』編集部の創作風景(イメージ)

『ガロ』は、
特定の思想を広めた雑誌ではない。

むしろ、『ガロ』がやったのは、

「排除しないこと」

それだけだった。

分からない作品も載せる。
下手に見える絵も通す。
読者に不安を残しても気にしない。

その結果、

・読む側が試される
・文脈を知らないと意味が取れない
・だが、刺さる人には深く刺さる

という構造が生まれる。

これは、
テレビ文化の完全な対極だった。

 


7|「うまい/下手」では測らない → ヘタウマへ

ヘタウマ漫画制作の瞬間(イメージ)

赤瀬川が揺さぶった
「うまい/下手」という評価軸は、
70年代にはまだ言葉を持たなかった。

それが80年代に入り、
「ヘタウマ」という名前を得る。

重要なのは、
ヘタウマは新しい美学ではないという点だ。

それは、

すでに存在していた感覚に
ラベルが貼られただけ

だった。

70年代にインストールされたOSが、
80年代に「見た目」として可視化された。

 


8|ミニ文化とは「安全な小世界」ではない

ミニ文化がつなぐ小さな世界(イメージ)

70年代サブカルは、
しばしば「内向き」「小規模」「オタク的」と評される。

だが、それは逃避ではない。

むしろ、

・全国的に通じる意味を信用しない
・分かり合えない前提でつながる
・説明を省略する

という、
極めてラディカルな態度だった。

小さな物語とは、
弱い物語ではない。

「共有されないこと」を前提にした、
新しい生存戦略だった。

 


9|現代との接続──なぜ炎上は避けられないのか

2020年代のSNSでは、
文脈が一瞬で切断される。

70年代サブカルは、
最初から文脈を限定していた。

つまり、

70年代:
「分からない人がいる」前提で作る

2020年代:
「分からない人が必ず現れる」構造で拡散する

この違いが、
炎上を必然にしている。

 


結語|分岐の時代が始まった

70年代は、
統合の時代ではない。

分岐の時代である。

赤瀬川原平というOSのもと、
美学校、『ガロ』、弟子たちのネットワークを通じて、
日本文化は静かに枝分かれを始めた。

この分岐は、
やがて80年代の音楽へ、
90年代の表現へ、
そして2020年代の炎上へとつながっていく。

次回、第9回では、
このOSが音楽という領域でどう起動したのかを描く。

 


次回予告

第9回:70s→80s 音楽とシティポップの前史
──大滝詠一・坂本龍一・YMOは何を“軽くした”のか

技巧でも、思想でもない。
「距離感」が音楽を変え始める。