
1. 「鈴木」という名のシェルター
婚活市場に、奇妙な企画がある。参加資格を「鈴木姓の男女」に限定したマッチングイベント、通称「鈴木限定婚活」だ。
名前だけ聞くと、バラエティ番組の悪ふざけにしか見えない。だが、この企画がなぜ成立するのかを追っていくと、笑い話のはずの場所に、現代日本の婚姻制度が抱える歪みがそのまま露出している。
このイベントの合理性は単純だ。結婚に伴う改姓手続きと、それに付随するコストを、まるごと消す。
日本の民法は、結婚に夫婦同姓を義務づけている。改姓する側――その9割以上が女性だ――が負うのは、単なる名義変更作業ではない。積み上げてきたキャリアや論文の著者名、信用口座、そして「その名前で生きてきた自分」という感覚の連続性が、そこで一度断ち切られる。
「鈴木」と「鈴木」が結婚するなら、この摩擦はゼロになる。
だが、このハックの本領は、事務作業の省略ではないところにある。婚活という場でプレイヤーを消耗させるのは、年収、学歴、身長、容姿、趣味のセンスまで含めた、多次元での品定めだ。「鈴木であること」という一条件を強い一次フィルターに据えることで、この採点競争から一足飛びに降りることができる。「苗字の手間を省きたい」という利害を最初から共有した者同士に求められるのは、100点満点の運命の相手ではない。システムを事故なく共同運用できる、平熱の相棒である。
この程度の問題なら、事実婚や旧姓の通称使用で十分ではないか、と思う人もいるだろう。事実婚は婚姻届そのものを出さないので改姓は起きない。通称使用も、戸籍上はともかく日常では旧姓を名乗り続けられる。だが、どちらも「本当は変わっているのに、変わっていないふりをする」回避策にすぎない。事実婚は相続や税制上の権利を戸籍婚より弱くしたまま、法的な籍を入れないという別の摩擦を抱え込む。通称使用も戸籍上の氏そのものは変わったままで、パスポートや正式書類では結局、旧姓に立ち返れない場面に必ず出くわす。どちらも、改姓という出来事自体は起きたことにして、その扱いだけを緩和する対症療法だ。
「鈴木限定婚活」が特異なのは、この2つとは違って、改姓という出来事そのものを最初から発生させない点にある。回避策ではなく、原因の消去だ。改姓を単なる事務作業ではなく、「その名前で生きてきた自分」の断絶として感じる人にとって、これは決定的な違いになる。
滑稽に見える条件が、実は一番効いている。この逆転が、この現象の面白さの出発点だ。
2. 構造的なバグとしてのロマンチック・ラブ
「鈴木限定婚活」が露わにしたのは、恋愛感情を土台にした婚姻という発想そのものの、構造的な不整合である。
近代社会は、運命的な恋に落ち、その情熱の延長として永続的な婚姻関係を結ぶというモデルを、長らく最適解として掲げてきた。しかし仕組みとして見ると、これは最初から無理のある設計だ。
動的で移ろいやすい「感情」を、静的で無期限の「契約」の唯一の起動条件にしてしまっている。
「恋愛感情は3年で冷める」という説がある。人類学者ヘレン・フィッシャーの研究に由来し、書籍やテレビで繰り返し取り上げられてきた、いわば俗説に近い定説だ。学術的に確定した数字ではないが、ドーパミンなど脳内の化学反応としての情熱が長続きしないこと自体は、多くの研究者が指摘するところである。情熱がいずれ減衰し、別の平熱な状態へ移行していくのは、人間にとってむしろ自然な過程らしい。
一方で婚姻制度は、終身の経済共同体、財産の共有、互いのケア義務という、無期限で重い契約を求める。賞味期限のある感情を、賞味期限のないシステムの唯一の燃料にしてしまった結果、現代人は二重のストレスを抱えることになった。「ときめきが薄れた自分は、不誠実なのではないか」という自己疑念と、「良きパートナーであるために、愛し続けているふりをし続けなければならない」という演技のコストだ。
「愛こそすべて」――1966年に来日したビートルズが日本武道館で熱狂を巻き起こしたその翌年、彼らはこの言葉をタイトルにした曲を世に出す。順番としては来日が先だが、象徴としては地続きだ。ロマンチック・ラブという輸入イデオロギーが、大衆文化の熱狂とセットで日本に上陸した時代である。スローガンとしては美しい。だが婚姻というシステムの燃料タンクに流し込んだ瞬間、それは呪文に変わる。
3. 制度の凍結と個人の裏技――欧米の軽量化、日本の「鈴木限定」
視点を広げて、国際的な制度設計を比べてみる。
「欧米は愛の国で、日本人は冷めている」という話をよく聞く。だが、これはほとんど逆だ。欧米諸国は「ロマンチック・ラブは長続きしない」という現実を早々に認め、社会システムそのものを軽くしてきた。日本は制度を旧来のまま据え置いたので、国民の側が「鈴木限定」のような裏技で辻褄を合わせるしかなくなっている。冷めているのは日本人ではなく、日本の制度の方だ。
欧米の軽量化は、いくつかの層で進んできた。
第一に、婚前契約の一般化。アメリカなどでは、離婚時の財産分与や生活上のルールを、結婚前に弁護士立ち会いのもとで契約化する。「愛が冷める可能性」を最初からリスクとして織り込み、感情と契約を切り離して管理する発想だ。
第二に、より軽い関係性の法制化。フランスのPACS(民事連帯契約)のように、法的婚姻より権利義務の範囲を絞り込み、解消コストを大幅に抑えた契約形態が社会に定着した。
第三に、夫婦別姓や結合姓の標準化。改姓によるアイデンティティの断絶や事務コストという問題自体が、多くの欧米諸国にはそもそも存在しない。
対して日本は、明治民法由来の「同姓強制・無期限包括契約」という重い制度が基本構造として固着したまま、法改正の議論は長く足踏みしている。制度が軽量化されない以上、改姓コストや離婚の障壁といった摩擦は、そのまま個人に返ってくる。
「重い制度」と「愛し続けろという高い理想」に挟み撃ちされた現代日本人が、生存戦略として捻り出した窮余の一策――それが「鈴木限定婚活」だ。欧米が制度の側を変えたのに対し、日本人は「制度は変わらない」ことを前提に、自分たちの属性(苗字)を揃えることで摩擦を相殺している。冷笑的な悪ふざけというより、凍結した制度の下で生きる者の、かなり切実な現実対応である。
4. 物語の書き換えを許さない構造
通常の婚活パーティーやマッチングアプリでは、始まりがどれほどドライな条件のすり合わせだったとしても、成立した瞬間に物語は書き換え可能になる。「条件で選んだつもりが、会ってみたら運命を感じた」――後付けでロマンチック・ラブの物語に改変できてしまう。
「鈴木限定婚活」だけは、この書き換えを許さない。二人がどれほど美しく「愛し合って結婚した」と語ろうとしても、根底には常に「お互いに鈴木だったから、あの場にいた」という記号的な事実が居座り続ける。ロマンチックな雰囲気に浸ろうとするたびに、「苗字の手間を省くために出会った」という身も蓋もない視点がちらつき、恋愛映画のヒロインを演じきることができない。
物語を書き換えられないというこの不自由さこそが、当事者に一種の救済をもたらす。世間のカップルが「私たちは愛し合っている」というフィクションを演じ続けるために払っているコストを、このシステムは最初から無効化してしまう。逃げ込める綺麗な物語がないからこそ、残るのは「システムを攻略するために出会った」という言い逃れのできない事実と、嘘のない平熱な関係だけになる。
ここまでは「鈴木限定婚活」という一つの企画の話だった。ここから先は、この企画が炙り出した、もっと一般的な問いに移る。物語を演じずに済む関係は、鈴木同士でなくても作れるのか――という問いだ。
5. 「愛さなければならない」という重圧からの解放
この問いの答えの手前に、多くの人が言葉にしないまま抱えてきた重圧がある。「相手を愛し続けなければならない」という規範だ。
「愛していること」を関係維持の条件にしてしまうと、人は日常の中で逃げ場のない罪悪感を抱える。ときめきが薄れたとき、「自分は不誠実なのではないか」と自己否定に陥りやすい。相手から愛されている確証を得ようとして、過剰な確認行動や感情的なパフォーマンスを互いに要求し合うことにもなる。
一方で、「愛」という不確実な感情をシステムから切り離し、最初からコスト削減と生活基盤の相互防衛を目的として関係を結べば、パートナーシップは「常に感情の検定を受ける場」から「心理的に安全な拠点」に変わる。感情の熱量が下がっても、システムとしては問題ない――そう互いに承認し合える関係では、感情の不確実性が関係そのものを揺るがすリスクが小さくなる。
ここで効いてくるのが、「愛」と「情」の分離だ。
スタンバーグの愛の三角理論など、心理学の枠組みでも、激しい情熱(Passion)と、時間をかけて育まれる親密さやコミットメント(Companionate Love)は区別される。日本語に寄せれば、前者が「愛」、後者が「情」だ。
「愛」は瞬発的で熱狂的、相手に高いスペックとロマンを求める、消費に近い感情。「情」は持続的で平熱、互いの不完全さを受け入れながら日々少しずつ積み上がっていく、蓄積型の絆。
ロマンチック・ラブの呪縛から降りるというのは、変動の激しい「愛」を生活の基盤から外し、趣味やエンタメの領域に位置づけ直すことだ。「愛」は結婚生活を回すための必修燃料ではなく、あればうれしいオプションになる。生活の土台として残るのは、熱狂こそないが壊れにくい「情」の方である。
ただし、ここで一つ楽観を挟んではいけない。そもそも、情を育てる資質そのものに個人差がある。誰もが同じだけ情を積み立てられるわけではない。「愛は減衰しても、情は自然に育つ」という前提そのものが、実は保証されていない。情熱が消えたあとに残るのが必ず情だとは限らない。ただの空白だけが残る関係もある。相手の不完全さを受け止める余地を最初から持たない人、日々の小さな不合理を許容するという作業そのものに向いていない人もいる。「愛が冷めれば自然と情に切り替わる」という想定に賭けること自体が、実は一つの賭博なのだ。
だからこそ、情を成り行き任せにせず、最初から意図的に設計しておくことには意味がある。「鈴木限定婚活」がしていることは、まさにこれだ。愛という不確実な入力を待たずに、情という蓄積を最初から目的として関係を結ぶ。情が自然に育つかどうかという賭けに人生を預けるより、育てる前提で関係を組んでおくほうが、はるかに手堅い。
そしてこの答えは、鈴木限定婚活という一企画の外にも通用する。苗字を揃えなくても、最初から「愛」ではなく「情」を土台に据えれば、同じ拠点は作れる。「鈴木」はその一つの近道にすぎない。
6. 「一人で死にたくない」という願いの脆さ
ここまで、合理主義的なハックの有効性を見てきた。だが、もう一段、意地の悪い問いを立てておきたい。
こうした合理性だけで、人生や長期的な人間関係は最後まで乗り切れるのか。
ここで浮かび上がるのが、婚活の場でよく聞かれる「一人で死にたくないから結婚したい」という動機の脆さである。この願いは、他者の「情(ケア)」に対する過大な期待、いわばフリーライド願望に近い側面がある。
老後や病床で誰かに介護され、看取ってもらうことは、人生でもっとも重いケア労働を相手に求める行為だ。孤独死の回避という自分の保身のために婚姻という契約を結び、相手にその重いケア労働を「配偶者なのだから」という理由だけで求めるのは、かなり非対称な要求になる。
ここに、多くの人が陥りやすい錯覚がある。法的契約(婚姻届)を結べば、自動的に「最期に寄り添ってもらえる権利」が付与されるわけではない。
どれほど「鈴木限定」のように初期設計を合理化し、出発点の摩擦をゼロに抑えたとしても、長期の共同生活には必ず予測できない出来事が起きる。病気、収入の減少、老い、心身の不調――どちらかの機能や価値が大きく低下する局面は避けられない。
純粋な損得勘定だけで結ばれている関係では、相手の機能が低下した瞬間、論理的な結論は「損切り(離婚・撤退)」になる。これは、結婚したばかりで情の口座がまだ薄いカップルほど、リスクとして重くのしかかる話でもある。始まりの合理性がどれだけ優れていても、それは初期設定にすぎず、積立の代わりにはならない。
損得勘定を一時的に停止させ、「相手の有用性が下がっても関係を続ける」という、いわば不合理な粘り強さを支えるもの――それが「情」の実際の機能だ。
「情」は契約の初期特典として自動的に付与されるものではない。日々の生活の中で互いに小さなコストを払い、些細な不合理を許容し合うことでしか積み立てられない、感情の貯蓄のようなものだ。
日常的に何も積み立ててこなかった人が、人生の土壇場でいきなり「配偶者なのだからケアしてほしい」と大きな引き出しを求めても、返ってくるのは冷静な拒絶であることが多い。保身だけを動機に関係へ入り、相手を終末期のインフラとして扱おうとした人は、最期にもっとも必要としていた「情」を、結局受け取れないまま終わることになる。もっとも身勝手な動機が、もっとも手痛いしっぺ返しを食らう。この皮肉が、合理主義だけでは押し切れない場所を教えてくれる。
7. 愛ではなく、情なのだ
人生の満足度や、長期的な人間関係の耐久性を決めるのは、スペックでも、高尚な理念でも、まして情熱的な「愛」でもない。日々の生活の中でどれだけ「情の貯蓄」を作れたか、という一点に尽きる。
年収や容姿といった市場価値も、脳内の化学反応である「愛」も、時間の経過や環境の変化によって目減りしていく、変動の激しい資産にすぎない。対して「情」は、相手や自分の市場価値が下がった瞬間にこそ真価を発揮する、耐久性の高い資産だ。
そう考えると、「鈴木限定婚活」という奇策の本質が、少し違って見えてくる。
この企画の価値は、改姓の手間を省いたことではない。過剰な「愛の物語」を演じる義務を最初から手放し、スペックの品定めという消耗戦から早めに降りることで、「無駄なエネルギーを使わず、二人で情の貯蓄に資源を集中させるための拠点を手に入れた」という点にこそ、本当の意味がある。
「愛こそすべて」という旋律は、ここには流れていない。まるでビートルズが武道館に来なかったかのような、ドライで平熱な世界線である。それでも、人々は「鈴木」という記号のもとに集まり、淡々と契約を交わし、同じ食卓を囲んでいく。
消費され、やがて目減りしていく「愛」という幻想を一度手放した人たちだけが、日々の小さな労いと許容の積み重ねの果てに、何物にも代えがたい「情」を手にしていく。滑稽な条件から始まった話が、最後には一番地に足のついた結論に着地する。それが、この奇策のいちばん面白いところだ。