Abtoyz Blog

ニュースの「構造」と、個人的な視点が交わる考察ログ

拝むための「光」をポケットに|IP神話とサブカル精神史

情報が無料化した時代に手元を照らす、自分だけの小さなご神体(イメージ)

「週刊ダイヤモンド、紙発行終了へ 来年4月から完全デジタルに」

「集英社、IP関連収入が出版売上高を逆転 全社売上高は横ばい」

2020年代半ば、ほとんど同じ時期に流れたこの二本のニュースを、私はしばらく忘れられずにいた。単なる「出版不況」でも「DX」でもない。もっと生々しい、産業の血の流れ方そのものが変わってしまったことを告げる報せだったからだ。

長年、社会の動きを読み解き、文脈を提供してきたビジネス批評誌が紙の歴史に幕を下ろす。その一方で、日本最大級の出版社の経営を支えているのは、もはや「本」ではなく「IP」——キャラクターのライセンスやグッズという、テキストとはまったく別の生き物になっている。

なぜ、これほどまでに「物語そのもの」でお金が取れなくなったのか。答えを探していくと、経済の話のはずが、いつの間にか信仰の話になっていた。そしてその足取りは、多くの人が10代から50代へと歩んでいく、サブカルチャーとの向き合い方の変遷とぴったり重なっている。

 

すべてが無料に近づいていく世界で

現代のエンターテインメント経済が突きつけてくる事実はシンプルだ。どれほど高品質なコンテンツであっても、単体では実質0円に収斂していく。

テキストはとうに0円になった。ネットとSNS、そしてAIの登場によって、ニュースも分析も複製コストは限りなくゼロに近づき、どれほど深い批評であっても「無料の代替品」に埋もれてしまう。文章そのものに直接お金を払わせるのは、もう至難の業だ。

映像もそうだ。かつて映画館やビデオの購入によって一本あたり高い単価で回収されていたコンテンツは、定額見放題の波にすっかり呑み込まれた。毎月同じ金額で無数の作品が消費される環境では、映画一本の実質的な価値はほとんど0円に近い。

最後の希望とされたはずの「体験」——音楽ライブや舞台でさえ、会場費や人件費、演出費の高騰でチケット代単体ではとんとんか赤字になる構造が当たり前になっている。

テキストも、映像も、ライブチケットさえも、それ単体ではビジネスを支えられない。では、現代のエンターテインメントはどうやって成立しているのか。

答えは一つしかない。無料か格安のコンテンツと体験で人を集め、最後に手元に残る「IPグッズ」で回収する、というモデルへの完全な収斂だ。

ライブ会場の赤字を埋めるのは、会場限定のアクリルスタンドやTシャツといった高粗利のグッズであり、集英社を支えているのも紙の本の利益ではなく、キャラクターのライセンス収入だ。コンテンツがどれほどデフレを起こそうと、「自分だけの所有物として手元に置ける記号」だけは、コピー不可能な価値を持ち続けている。

 

キムタクのチョンマゲが教えてくれたこと

この構造そのものではなく、その土台にある感性の予兆は、すでに30年前、90年代半ばに現れていた——物語よりも記号を愛するという心の動きは、コンテンツが値崩れするよりずっと前から、すでに始まっていたのだ。

当時、40代の女性から直接聞いた一言が、今でも耳に残っている。「キムタクは好きだけど、チョンマゲのときは嫌」。

一見するとただの好みの話だが、これは現代のIP社会の到来を言い当てた、極めて鋭い視点だったと思う。当時のテレビや映画は、役作りという名目でキャストの姿を変えることをむしろ美徳としていた。物語のリアリティのために、俳優は別人になることを求められる。

でも彼女が愛していたのは、ドラマのストーリーではなかった。「ロン毛でスタイリッシュな木村拓哉」という、すでに完成されたアイコンそのものだった。役作りによってそのビジュアルが損なわれるとき、彼女にとって物語はもはや楽しむ対象ではなく、理想の記号を侵食する余計なノイズになってしまう。

ストーリーの介在なしに、もっとも美しい状態のアイコンだけを永遠に享受したい——この欲望に応えるように、1995年から1997年のわずか3年間に、現代のIP社会を支える発明が立て続けに生まれる。

複雑な背景設定から切り離され、「包帯」「無口」「青髪」といった属性の組み合わせそれ自体が愛される受容体として現れた綾波レイ。重厚な文脈を読み解く必要もなく、ただ所有し、日常に連れ歩くだけでいい相棒として登場したピカチュウ。そして実在の少女たちを属性化し、メンバーが入れ替わってもシステムそのものは永続するという集金装置を発明したモーニング娘。

ピカチュウの成功には、アニメ化にあたって『魔法のプリンセス ミンキーモモ』を手がけた首藤剛志・湯山邦彦という黄金タッグが参加したという、ほとんど奇跡のような幸運もあった。ゲームという完成された記号システムに、アニメ特有の普遍的な人間ドラマが注入されたことで、ピカチュウは物語を求める層と、純粋な記号として愛でたい層の両方を同時に掴む、最強のIPへと飛躍していった。

2000年代に入ると、90年代に自然発生したこの野生の熱狂は「IP」という言葉で再定義され、コンテンツがゼロ円化していく時代における、ほとんど唯一のマネタイズ装置として確固たる地位を築いていく。

 

ROCKからアイドルへ、アイドルからIPへ

綾波レイもピカチュウもモー娘。も、業界が発明したのは結局のところ「物語なしで愛せる記号」だった。そしてこの発明が世に受け入れられたのは、それを求める心の側にも、同じ変化がすでに起きていたからだと思う。産業の話をしているつもりが、気づけば一人の人間の年表を語っていた。コンテンツが暴落し、過剰な言葉が溢れる世界の中で、多くの人の内面もまた、同じ順序で変化していったように思う。

10代の頃、サブカルチャーは世界に対する武器だった。尖った言葉、過剰な批評性、ノイズや毒を身にまとい、「世界とどう戦うか」「自分は何者か」を定義しようとしていた青い時代。あの頃は、テキストや思想を解読することそのものに情熱を傾けていた。

社会に出て現実に揉まれる30代になると、かつて愛した過剰なメッセージ性や批評性は、胃もたれを起こす重荷に変わってしまう。代わりに求めたのは、生身のアイドルだった。ひたむきに汗を流す姿に肯定と救いを見出し、ライブ現場の熱量の中でストレスをデトックスする。ただし生身の人間を推すことには、スキャンダルや老い、解散といった「変化と裏切りのリスク」が常につきまとう。

そして可処分所得と、ある種の達観を手に入れた50代。もう人間関係の不確実性や現実の摩擦に傷つきたくない大人がたどり着くのは、一切のノイズが存在しない、完璧に完成された世界観としてのIPだ。

10代で毒を求め、30代で優しさを求め、50代で絶対的な安全にたどり着く。過剰な自意識で世界と衝突していた若き日のサブカルチャーは、加齢とともに、過酷な現実をしなやかに生き抜くための技術へと洗練されていったのだと思う。

 

デスクの上のお経

50代になった今のオタクは、アニメのキャラクターにとどまらず、富野由悠季監督や高田文夫先生といった現実の創造主すら、手のひらサイズのアクリルスタンドにして日常に招き入れる。

富野監督のアクスタは、厳しい創作の苦悩と批評性の象徴として、デスクに置くことで自分を鼓舞する守護者になる。高田先生のアクスタは、東京の粋と破顔一笑の笑いの象徴として、煮詰まった心に「まじめにやってんじゃねえよ」と風穴を開けてくれる招き猫になる。

これは単なるキャラクターグッズの消費ではない。人物の背後にある巨大な思想や文脈を、現実空間に配置するコンセプチュアル・アートに近い行為なのだと思う。

ここで効いてくるのが、造形における「SD(スーパー・デフォルメ)化」という、地味だけれど偉大な発明だ。

リアルな8頭身の人形は、細い足首と高い重心のせいで倒れやすく壊れやすい。日常的に持ち歩くには向いていない。日本の「SDガンダム」や「ねんどろいど」、アメリカの「Funko Pop!」に代表される二頭身化は、造形を低重心の塊へと変換することで、圧倒的な耐久性と可搬性を手に入れさせた。

ただし、SD化はあくまで「壊れにくくする」ための工学的な解決であって、それ自体が「同一性」を作り出しているわけではない。そもそも人間には、姿形がどれほど変わっても同じキャラクターだと認識できる能力が先に備わっていて、SD化はその能力があったからこそ成立できた発明だ。では、なぜ人間は8頭身のリアルな姿と、2頭身のちんちくりんなSD姿を「まったく同じキャラクター」として認識できるのか。

人間が愛しているのは、外側の肉体ではなく、内部に納められた不変の情報——いわば魂の部分だからだと思う。

仏教美術には、仏像の胎内に経典や仏舎利を納める「胎内納入品」という構造がある。外側の姿が絵画であろうと、立像であろうと、8頭身の巨像であろうと、ポケットサイズのお守りであろうと、内部に書かれた「お経」が同じであれば、脳は即座にそれを同一のご神体として読み解く。

8頭身がドラマや情緒を深く鑑賞するためのインターフェースだとすれば、2頭身のSDは、日常空間に持ち出し、安全に所有するためのインターフェースに過ぎない。人間は、同じお経を用途に合わせて別の画面に出力しては、それを愛でているのだ。

 

拝む行為の民主化

「芸術は宗教から生まれた」という美術史の命題は、現代のIP文化においてかつてない形で結実しているように見える。

かつて西洋の絵画や彫刻は聖書を語るイコンであり、東洋の仏像は祈りを捧げるご神体だった。近代以降、宗教の衰退とともに美は美術館に閉じ込められ、高尚な教養として世俗化していったが、現代のIPビジネスは、その「祈りの道具」としての機能を大衆の手に取り戻したように思える。

東洋の文化圏において、この受容は驚くほどスムーズだった。かつて戦国武将が小さな仏像を巾着に入れて懐に忍ばせた念持仏の習慣や、あらゆる物質に神性が宿ると考えるアニミズムの感覚は、現代人がアクスタやキーホルダーをカバンにつけて持ち歩く姿と、そのまま重なる。

一神教と偶像崇拝禁止の歴史を持つ西洋においても、その反動はむしろ激しい。英語圏のファンが自分のフィギュア棚を「Anime Shrine」と呼び、オフィス街のデスクに「Funko Pop!」を飾る現象は、かつてカトリック圏の人々が身につけていた守護聖人のメダルの、現代的なアップデートに他ならない。

そしてファンがIPに払う対価を「お布施」と呼ぶのも、極めて本質的な言い方だと思う。

映画や動画がほぼ0円で消費され、ライブのチケット収入すら興行コストで消えていく世界で、ファンがグッズを買う動機は単なるモノの購入ではない。そのIPがこの世に存在し続けてくれることへの感謝であり、お寺の修繕費を納めるような奉納の精神だ。舟木一夫がいくつになっても学ランを着続け、田原俊彦が「トシちゃん」であり続けるように、不変のイコンとして生きる存在に対して、人々は惜しみなくお布施を払い、その光を維持しようとする。

 

ポケットに、この世の光を

冒頭のニュースに戻る。「週刊ダイヤモンド」の紙媒体終了と、集英社のIP売上逆転。この象徴的な出来事は、コンテンツや体験そのものの価値がゼロへと向かう世界の中で、人々が手元に残る不変のご神体に、資金を集中させ始めた結果なのだと思う。

テキストや映像という「体験」はタダ同然で消費され、消えていく。けれど手元に迎え入れたアクスタやフィギュア、ライセンス化された記号だけは、決して消えることなく日常に留まり続ける。

社会の不確実性が増し、過酷な現実が容赦なく襲いかかる時代において、IPとは自分を裏切らない「この世の光」であり、持ち運べる現代のお守りなのだ。

10代の頃、言葉のナイフを研ぎ澄まし、世界への反逆として始まったサブカル精神史は、言葉や映像が過剰に溢れかえるゼロ円時代をくぐり抜けて、デスクの上の小さなアクリル板に向かって「ありがたいな」と目を細める境地へと、いつのまにか着地する。

それは現実からの逃避ではないと思う。自分自身の美意識で選び取った小さなご神体をポケットに忍ばせ、この過酷な世界を愛おしく、しなやかに生き抜くために、私たちが手に入れてきた、もっとも優しく、もっとも高度な生還の技術なのだ。