Abtoyz Blog

ニュースの「構造」と、個人的な視点が交わる考察ログ

ちいかわ転売騒動から考える「カワイイ」の正体

大人になっても、ぬいぐるみを抱いていた子供は手放されていない(イメージ)

導入:コンビニの棚の前で覚える、あの「ざらついた違和感」

「セブン、不正転売横行か 人気キャラ商品発売前」

2026年7月23日、そんな見出しのニュースがタイムラインに流れてきた瞬間、胸の奥にすっと冷たい風が吹き抜けるような違和感を覚えた。

報道によれば、セブン‐イレブン・ジャパンは7月13日付で全国の加盟店オーナーに警告文書を発出していた。告知した発売日時より前に商品を取り置き、大量に買い占め、転売サイトに出品する——一部の店舗ではオーナーや従業員自身の関与も疑われ、悪質なケースでは加盟店契約の中途解約に踏み切った例もあるという。証拠として拡散したのは、6万4000円で転売されたポケモンカードの写真だ。そこにはセブン‐イレブンの名札やレジ、店員の制服までもがくっきりと写り込んでいた。「あそこのセブンはいつも上位賞がない」という、これまで客の憶測として片付けられてきた疑惑が、本部によって「不正」として裏付けられてしまった格好だ。

このニュースが報じられたのと同じ7月23日午前10時、店頭では別の「争奪戦」が始まっていた。7月24日公開の映画『ちいかわ 人魚の島のひみつ』コラボ第一弾として、対象商品を3個購入すると先着無料でもらえる限定PVCチャームの配布がスタートしたのだ。フェア開始は7月21日、映画公開は7月24日、第二弾は7月30日。不正転売の警告が明るみに出たまさにその週、全国のセブン‐イレブンは「ちいかわ争奪戦」の渦中にあった。今回名指しで報じられた実例はポケモンカードであり、ちいかわグッズそのものが転売されたと確認されたわけではない。それでも、「発売のタイミングを店舗側が握る」「数量限定・先着方式」という不正の起こりやすい供給構造は、まさにこの週、ちいかわコラボによって全国の店頭に立ち上がっていた。

だが、ここで私が感じたのは、単なる「転売ヤーへの怒り」ではなかった。もっと根本的な問いだった。

なぜ、私たちはここまで狂騒しているのだろうか。

億単位の高級外車でも投資用不動産でもない。せいぜい数百円から千円の、プラスチックや紙のグッズだ。それを巡って大人が目の色を変え、フリマアプリの相場を監視し、店員の制服が写った写真を拡散して盛り上がる。この奇妙な熱狂と、それに伴う泥臭いマネーゲーム。私たちが都市で生きる中で目撃しているこの鬱屈の正体は、一体何なのだろう。

 


第1章:「カワイイ」の正体 ── 平坦な現実と、手のひらサイズの救い

なぜ、転売や買い占めの対象はいつも「カワイイもの」なのか。

そもそも、私には金持ちの友達がいない。オークションで何億円もの値がつく巨大な彫刻の話をされても、正直ピンと来ない。だがこの違和感は「金がないから縁がない」という話だけではない気がしている。

現代アートの文脈では、いまだに崇高な概念や市場でのアセット価値が語られる。だがその語り口自体が、もうずいぶん古びて聞こえないだろうか。「これは既存の枠組みを批評的に解体している」——そういう身振りは、かつては世界の見方を更新する力を持っていた。だが今、その同じ身振りを聞かされても、私たちの生活の手触りは何も更新されない。

いや、現代アートの批評だけの話ではない。「批評」という営みそのものが、もうあまり流行っていない。何かを腑分けし、文脈に位置づけ、良し悪しを論じる——そういう迂回路を経由する前に、私たちはもっと直接的な言葉で「わかる」「無理」と判定してしまう。批評という手続き自体が、時間もコストもかかりすぎる贅沢品になったのかもしれない。

崇高さで人を黙らせる力よりも、手のひらの上で「わかる」と即座に言わせる力の方が、今の時代、圧倒的に強い。美術館の白い壁も、批評家たちの理論武装も、私たちの生活圏からは何光年も離れた場所で、静かに力を失いつつある。しかも皮肉なのは、その「空間を埋めるために必死な」巨大インスタレーションやFRP彫刻自体が、もう崇高さを本気で信じていないように見えることだ。批評の言葉を身にまといながら、やっていることの実質はカワイイと同じ「一瞬で伝わる強度」の勝負にすり寄っている。ただしカワイイのように潔く徹しきれていないぶん、なんとも据わりの悪い空虚さだけが残る。

私たちの目の前にあるのは、美術館ではなく、コンビニの棚、ガチャガチャのコイン投入口、フリマアプリという、どこまでも平坦な地平だ。では、なぜその平坦な日常で「ちいかわ」のようなカワイイものが、これほど強く人を惹きつけるのか。

それは、「カワイイ」が現代都市において傷つかずに済む、手のひらサイズの「お守り」として機能しているからではないか。

そもそも「高尚」自体、今どれほど実体として残っているのだろう。それを支えていた権威も批評も、もう半分は骨抜きになっている。だが厄介なことに、その空洞化した残響だけは、今も条件反射のように私たちを試してくる。白状すれば、こうして斜に構えて書いている私自身、その反射神経をまだ手放せていない。美術史の教養も批評的な語彙も、カワイイものだけは一切要求しない。

だが「ちいかわ」は、単なる甘いおとぎ話ではない。作中では理不尽な労働や資格試験の挫折、正体不明の恐怖といった「生々しい毒」が、丸っこいキャラクターの口からぽつりぽつりと語られる。誰も守ってくれない世界で、それでも小さな生き物たちがひたすら働き、涙を流し、それでもまたご飯を食べて眠りにつく。

都市の残酷な現実を内包しながら、それを丸くポップな造形へと変換し、「それでもラーメンを食べて生き延びよう」とそっと寄り添う。ポップに擦り寄りながらもどこか崇高さの仮面を捨てきれない美術論とは違って、これは最初から仮面を持たない。この平坦な都市で生き延びるための、切実な「お守り」なのだと思う。

 


第2章:仮説 ── 誰がこの「お守り」を切実に買い支えているのか

この「お守り」を切実に買い支えているのは誰なのか。

もうひとつ、氷河期世代という枠組みよりもっと手前にある見立てがある。

子供の頃、ぬいぐるみを抱いて眠っていた記憶を持つ人は多いはずだ。あの無条件に受け止めてくれる感触は、成長とともに「卒業すべきもの」として扱われる。だが実際には、卒業などしていないのではないか。ただ、その子供が感受性はそのままに大人になり、そこに後から「勤労の義務」だけがくっついてきた——それだけのことなのだと思う。会社に行き、資格を取り、成果を出す。そうした義務を背負わされた身体の内側には、あの柔らかいものにしがみついていた子供が、手放されないまま今もそっと眠っている。ちいかわのような造形が「幼児退行」と切り捨てられずに大人の可処分所得を吸い上げるのは、これが懐古趣味だからではなく、一度も本当は手放していなかったものに、大人になってようやく「自分の審美眼で選んだ」という正当な理由をつけて買い戻しているだけだからではないか。

そのうえで、もう一段具体的な仮説を重ねるなら、いわゆる「就職氷河期世代」周辺の大人たちの姿が浮かび上がる。1970〜80年代に生まれ、社会に出た瞬間から「自己責任論」を突きつけられ続けてきた世代にとって、ちいかわたちが背負う厳しい労働や挫折は、自らの人生の戯画として刺さる——というのがこの仮説の骨子だ。無論、これを裏付ける購買データは持っていない。SNSで争奪戦を眺めていて浮かぶ、ひとつの見立てにすぎない。もし当たっているなら、40〜50代を迎えた彼らは、サブカルチャーに親しんできた審美眼と、ささやかな可処分所得を持つ世代でもある。造形の丸みや線の引き方といった「職人の良い仕事」を見抜いた上で、自分の意志で買い求める。

ここに、現代の消費社会特有の「ねじれ」が発生する。お守りだからこそ、絶対に汚されてほしくない。過酷な世界から自分を守る聖域だからこそ、「完璧に無垢であってほしい」と祈るように願う。未開封で傷ひとつない状態を求める心理は、フィギュアやトレーディングカードの世界では「完品」「美品」という言葉に置き換えられ、時に鑑定機関のランク付けの対象にすらなる。しかし、誰もが「無垢なお守り」を欲しがれば、そこに巨大な需要が発生するのは避けられない。結果として転売ヤーが群がり、相場が暴走する。今回のセブン‐イレブンの一件のように、供給側の内部にまでその濁った水が染み込んでいくこともある。「無垢な救い」を求めた祈りが、皮肉にも「資本主義の狂騒」を引き寄せてしまう。この構造こそが、私たちの頭をクラクラさせていたものの正体かもしれない。

 


第3章:神格化と冷笑のあいだでクラクラする頭

思考はここで一度、眩暈に襲われる。「ちいかわ」の中に現代を生き抜くお守りを見出し、「これは現代の聖歌だ」と持ち上げた瞬間に、冷めた自分がすかさず差し込んでくる。「いや、結局は巨大なエンタメ企業が回すIPビジネスじゃないか」。コンビニのコラボも新商品も、私たちの「お守りを欲しがる感情」を計算し尽くしたマーケティングに過ぎないのではないか。そう思うと、今度は「くだらないキャラ商売だ」と冷笑したくなる。

100%没入して神格化するか。0%に冷めきって冷笑するか。私たちの脳は、この極端な振り子に揺さぶられ続けると、単純に疲弊する。どちらかに振り切ってしまう方が、思考のコストは圧倒的に軽いからだ。

セブン‐イレブンの不正転売のニュースと、それに便乗して広がるSNSの怒りを見つめながら、私たちはこの二極化の間で立ちすくんでしまう。店員を「悪」として吊るし上げるだけの視点にも、「所詮はグッズだ」と切り捨てるだけの視点にも、どこか居心地の悪さが残る。

 


第4章:「あわい(間)」に佇むという大人の態度

だが、この二項対立から抜け出すヒントはある。

哲学者・九鬼周造は『「いき」の構造』の中で、「粋」を「媚態」「意気地」「諦め」という三つの契機からなるものとして解き明かした。対象に惹かれる色気(媚態)を、誇り高い意地(意気地)が野暮にならないよう律し、運命への諦観(諦め)がその執着を軽やかに手放させる——その釣り合いの上に「いき」は成り立つ、という論理だ。のめり込みっぱなしでもなく、突き放しっぱなしでもない。惹かれながらも執着を残さない「あわい」の状態こそが、洗練された振る舞いだという発想である。千利休の「侘び」も同じ発想の系譜にある。当時もてはやされた唐物一辺倒の価値基準に対し、名もなき職人が作った雑器の中に「良い仕事」を見出し、もうひとつの物差しを持ち込んでみせた。

これを現代のコンビニの棚に引き戻してみる。「まあ、ただの量産品だし、ビジネスだけどね」と、資本主義の構造をあっさり受け入れる。神格化もしない、冷笑もしない。その熱狂から一歩身を引いて——「でも、この造形は職人がすごく良い仕事をしてるよね」と、静かに見抜く。

100%の既製品のただ中に立ちながら、自分の眼だけで「仕事の純度」を愛でること。転売の狂騒にも、冷笑的なシニシズムにも回収されない、ささやかな第三の場所を自分の中に持つこと。これこそが、現代における「大人の態度」なのだと思う。

 


結び:私たちは「3%のアプローチ」で生きていく

ファッションデザイナーのヴァージル・アブローは、自らの創作手法を「3%アプローチ」と呼んだ。何かをデザインするとき、彼は原型からわずか3%だけを編集する。ナイキのエアフォース1を頼まれたとき、彼は「別の靴」を作りたかったわけではない。すでに手元にある靴を、新しい目で見つめ直させてくれる、ほんの小さな仕掛けが欲しかったのだと語っている。100%新しいものをゼロから発明する必要はない。既製品を、ほんの数パーセントだけ視点を変えて再解釈すればいい——そういう思想だ。

これはあくまで、作り手であるアブローが自分の制作手法を語った言葉だ。だが、あえて拝借するなら——受け手である私たちの側にも、同じ姿勢は応用できるのではないか。既製品の97%をそのまま受け入れながら、残りの3%だけは自分の目で見分ける。私たちはナガノ氏のような天才、つまりゼロから100%を生み出す創作者にはなれない。だが、そのことに無力感を覚える必要はない。

溢れ返る量産品の中で、市場の相場という狂騒に呑み込まれず、「世間がどう騒ごうが、この良し悪しは自分にはわかる」と、自分の感覚だけで良い仕事を見分け、自分の生活の中にそっと引き寄せる。

セブン‐イレブンの不正転売のニュースを横目に、私たちは都市のベンチで肩の力を抜いて苦笑いする。「まあ、大騒ぎしてるね。ただの量産品なのに」。そう呟きながら、自分のポケットにある、自分で納得して選んだ手のひらサイズのお守りをそっと確かめる。

100%の創作者になれなくても、過酷な都市を涼しい顔で生き抜く「見立てる者」として、この「あわい」の場所で軽やかに生きていけばいい。転売相場にも、SNSの怒りにも、企業のマーケティングにも振り回されない、自分だけの3%を持ったまま。