Abtoyz Blog

ニュースの裏側に潜む「構造」を、独自の視点と個人的な思い出で読み解く考察ブログ。テクノロジーから都市論、文化史まで、抽象的な事象を言語化し、変化の激しい現代を賢く生き抜くための視座を提示します。

AIは感情を扱えるか? 全国初のAI校歌が証明した「日本の感情地図」という答え

全国の感情を歌にする旅、色と音の日本地図(イメージ)

「AIに感情はわからない」
その常識が、2026年4月に静かに書き換えられた。


── まず、この一問から始めよう

「AIが作った歌は、なぜ心に刺さらないのか?」

この問いに、あなたはすでに答えを持っているはずだ。

どこかで聞いたことがある。無難すぎる。感動はするが、泣けない。

そう感じてきたなら、それは正しい観察だった。

だが、2026年の春、その前提が揺らぐ出来事が起きた。

 


なぜ今、「AI校歌」が話題になっているのか

2026年4月8日。三重県桑名市に新しく開校した小中一貫校「市立多度学園」の開校式で、一曲の校歌が初めて披露された。

3拍子。ゆったりと、しかし力強く始まり、途中から盛り上がるメロディ。子どもたちの声が体育館に響くなか、その場にいた人々は「確かな情緒がある」と感じたという。

この校歌の特徴は一つだけだ。

作詞・作曲に、生成AIが使われた。日本で初めての試みとして。

 


「AI校歌」の正体──どうやって作られたのか

多くの報道は「AIが校歌を作った」と伝えた。だがその実態は、もっと複雑で、もっと面白い。

プロジェクトの名前は「超校歌〜AIがつくるみんなの校歌〜」。理化学研究所(理研AIP)とiU情報経営イノベーション専門職大学の共同研究として、2023年から桑名市と連携して進められてきた。

制作のプロセスはこうだ。

歌詞: 地域住民や子どもたちが提案した702件のキーワードを、日本中の校歌を学習させたAIに取り込んだ。AIと人間が対話を繰り返しながら歌詞案を5案に絞り込み、その中から1案を選んで確定させた。

メロディ: 2024年11月、多度地区4つの小学校の6年生・中学校吹奏楽部員・準備委員会のメンバー計135人が参加した作曲授業で、40曲が生まれた。理研AIPが開発したAI作曲支援システムが各曲を1小節ずつに分割し、それらを組み合わせて1050通り以上のメロディ候補を生成。九州大学が開発したAI技術でメロディと歌詞の適合度を測定し、100通りに絞り込んだ。

最終選定: 100通りの候補をもとに、東京藝術大学の金子仁美准教授らが4つの候補曲を制作。この4曲の中から、理研AIPの客員主管研究員でもある音楽プロデューサー・小室哲哉らが参加した選曲ミーティングで、最終的な1曲が決まった。

桑名市の伊藤市長はこう語った。「新しいテクノロジーを使って多度町の皆さんの思いを一つにすることができた。何十年と歌い継がれるのにふさわしい校歌になった」と。

 


ここで、本当の問いが浮かび上がる

「全国初のAI校歌」というニュースとして消費するのは簡単だ。

だが立ち止まって考えてほしいのはここだ。

地域住民の702件のキーワードをAIが整理し、135人の子どもが生み出したメロディをAIが組み換え、1050通りの候補を生成し、人間の感性と照合しながら1曲に収束させた。

これはAIが感情を「作った」のではない。
人間が持っていたが言語化できていなかった感情を、AIが「構造化して取り出した」プロセスだ。

この違いは小さいように見えて、決定的に重要だ。

 


AIと感情──「平均的な言葉」の時代は終わった

かつてのAI作詞は「安全な平均値」だった。誰も傷つけないが、誰の心にも刺さらない。最も傷つきにくい言葉の集合。

それが変わりつつある理由は、技術の進歩だけではない。アプローチの転換だ。

「感情を生成する」から「感情の構造を抽出して再現する」へ。

感情には構造がある。北海道の雪原がなぜ孤独感を呼ぶのか。大阪の笑いがなぜ防御として機能するのか。それらには、説明できる「なぜ」がある。AIはその「なぜ」の構造を学習し、再現できるようになった。

では、その力で何ができるか。ここからが、この記事の本題だ。

 


日本の感情地図──9つの土地、9つの感情

AIが感情を構造化できるなら、日本各地の感情を歌にすることもできるはずだ。

一つだけルールを決めた。

観光要素を一つ入れる。だが主役は感情にする。

名産品の羅列は観光パンフレットに任せる。ここでは、その土地に生きた人間の内側に触れる。なお、以下の歌詞はすべてAIによる創作物であり、多度学園の校歌とは無関係だ。

 


第1章:北海道「白い自由」

歌謡曲|参照:中島みゆき『時代』期

北海道を語るとき、人は決まって「広い」「自由」と言う。

それは正しい。だが表層だ。

広さの本質は「人間のスケールを超えた空間」にある。そこに一人で立ったとき、人は初めて気づく。自由と孤独が、切り離せないことに。

都市を離れてしがらみを脱ぎ捨てた直後。解放感の後に来る、あの静けさ。それは快さか、寒さか。

 
 
【1番】
地図の端まで 来てしまった
誰も知らない 名前で生きる
丘の向こうに 何があるかを
問いかけるほど 若くはないが

春が来るまで 雪は降り続け
それでもここに 立っていた

【サビ】
自由ってやつは 重さがない
だから風の日は ひとりになれる
遠くへ来たと 思っていたが
もとから ひとりだったのかもしれない

戻る場所を 持たない人間が
いちばん空を よく知っている

「もとからひとりだったのかもしれない」──解放感の正体を問い直す一行だ。自由を手に入れたはずが、自由になる前からひとりだったと気づく。それは絶望ではなく、腑に落ちる感覚に近い。

北海道が持つ感情の核心は、帰る場所の確かさを手放したときにだけ訪れる、あの特別な寒さだ。

 


第2章:東北「なまはげ」

演歌|参照:民謡ビート・八代亜紀系

なまはげを「地域の伝統行事」として処理するのは、あまりに勿体ない。

あれは「外から来る圧力」の象徴であり、非常に倫理的な恐怖だ。怠けるな、真面目に生きろ、目を逸らすな。見られているから人は背筋を伸ばす。恐れが秩序を生む構造だ。

 
 
【1番】
雪の夜更けに 太鼓が鳴った
親父の背中が 縮んで見えた
「泣ぐ子はいねが」 声が来る
息を殺して 板の間にはいつくばった

サボっていたのも 嘘ついたのも
全部お見通しだと 知っていた

【サビ】
怖くて当たり前だ 人は弱い
だから雪の夜は 背筋が伸びる
ドンドンドンと また来る気がして
今でも玄関を 振り返る

あの声が聞こえる 耳の奥で
サボってねえか と

「サボってねえか と」──サビの最後をこの一行で宙吊りにする。結論も教訓も言わない。ただなまはげの声が、今も耳の奥に生きていることだけを伝える。説明しないことで、読む者それぞれが自分の「サボっていたこと」を思い出す。

恐れは外から来て、内側に住みつく。それがなまはげの本当の仕事だ。

 


第3章:東京「終電のあと」

シティポップ|参照:竹内まりや『駅』

「東京の人間は冷たい」とよく言われる。

これは半分正しく、半分誤解だ。東京の距離感は冷たさではない。踏み込まない優しさだ。

事情を持ったまま存在することを許す文化。名前を聞かない、理由を尋ねない。ただ同じ夜の中に、それぞれがいる。

 
 
【1番】
終電を わざと逃した
理由は言わない 言えないんじゃなく
ネオンの滲む ガラス越しに
見知らぬ顔が 流れていく夜

隣に誰かが 座っていても
名前を聞くのは 野暮というもの

【サビ】
この街は 聞かないでいてくれる
どこから来たかも どこへ行くかも
それが冷たいと 言う人もいるが
私は それを やさしさと呼ぶ

ひとりの夜を 持てる人間だけが
ふたりの朝を 知ることができる

「理由は言わない 言えないんじゃなく」──ここが核心だ。言えないのではなく、言わないことを選んでいる。その能動的な沈黙が、東京という街の品格を作っている。

「ひとりの夜を持てる人間だけが、ふたりの朝を知ることができる」。東京という街はそれを教えない。ただ、体験させる。

 


第4章:静岡「まあいいら」

J-POP|参照:コブクロ・平井堅系ミドルバラード

「まあいいら」

この一言が、静岡という土地の感情を凝縮している。

お茶は「待つ文化」の象徴だ。急須に湯を注ぎ、茶が蒸れるのを待つ。その時間は急かせない。急かすと味が変わる。そしてその文化が、「今日うまくいかなくていい」という受容の倫理を育てた。

 
 
【1番】
お茶を一杯 淹れながら
今日もたいして できなかった
急いだところで 変わらんら
茶葉が蒸れるのを 待つように

焦っていたのは 誰のためか
冷めてみると わからなくなる

【サビ】
まあいいら まあいいら
そういう日も あるらいね
この湯気の向こうに 明日がある
ゆっくりでいい ゆっくりでいい

うまくいかなかった日の夜ほど
お茶がやけに 甘く感じる

「焦っていたのは 誰のためか」──この一行がこの曲の転換点だ。お茶が冷める時間の中で、問いだけが残る。答えは出ない。だが問いが立った瞬間に、何かが緩む。

頑張ることを肯定する文化が支配的な日本の中で、静岡は貴重なカウンターだ。この一杯で、今日は終わりにしていい。

 


第5章:名古屋「栄の夜」

歌謡曲|参照:細川たかし系・テンポある濃い歌謡

名古屋の人間は「見栄っ張り」と言われる。豪華な冠婚葬祭、立派なクルマ、派手な外観。

だがその裏を見ると、驚くほど堅実だ。家計管理が細かく、節約と贅沢の使い分けが明確。「高く見せるために安く買う」という逆説的な合理性がある。見栄は感情ではなく、計算の結果だ。

 
 
【1番】
夜の栄を 走るクルマ
似合っとるか? まあそういうことだ
高く見せることに 意味がある
中身の計算は ちゃんとできとる

夢を語るのは タダだけど
動かすためには また別の話

【サビ】
味噌の濃さで 生きてきた
薄味なんか 性に合わん
見栄を張るのは 弱さじゃない
張れるだけの 算段がある

ロマンと算盤 どっちも本気
それが名古屋の流儀 だがや

「だがや」を最後の一発だけに絞った。それまでは標準語に近い歯切れのいい語感で畳みかけ、最後にだけ名古屋弁が出る。溜めて一発。この構造が、名古屋人の「計算して、最後に本性を出す」気質そのものと重なる。

ロマンと算盤、どっちも本気。これが名古屋を名古屋たらしめている。

 


第6章:大阪「熱いまま」

J-POP|参照:関ジャニ∞系・明るく感情的

大阪の笑いを、エンタメと思っているなら少し違う。

あれは生存戦略だ。

感情をそのまま出せば衝突が起きる。だが笑いに変換すれば、衝突を避けながら本音を届けられる。外は丸く収める。だが中身は熱いまま。

 
 
【1番】
泣きそうな顔 してるやんか
ほなとりあえず 笑わそか
しんどいことを しんどいと言えへんまま
笑いに変えて やり過ごしてきた

それで負けたとは 思わへんで
笑えてるうちは まだ本物や

【サビ】
たこ焼きみたいに 丸くしても
中身の熱さは 変わらへん
なんでやねんって 言えるうちは
まだ諦めてない 証拠やから

笑いは逃げじゃない 戦い方や
大阪で生まれて それを学んだ

「泣きそうな顔してるやんか」という観察と「ほなとりあえず笑わそか」という応答の間に、大阪の人間関係の核心がある。見ている。気づいている。だが直接言わない。笑いで包んで渡す。

「笑いは逃げじゃない、戦い方や」。この一行が言えるのは、本当に戦ってきた人間だけだ。

 


第7章:四国「白い道」

演歌|参照:坂本冬美系・情念型

四国八十八箇所のお遍路は、「救われるための旅」として語られることが多い。

だがこの曲は、その前提に疑問を呈する。

本当に、歩けば救われるのか。

 
 
【1番】
似合わぬ白を まとって歩く
借りもの人生 そのままの姿で
八十八つの 鐘を打つたびに
消えない記憶が また浮かんでくる

軽くなりたくて 歩き始めたが
重さはむしろ 増えていくようだ

【サビ】
それでも足は 止まらない
救われるとは 思っていない
ただ歩くことが 今の全てで
夕焼けだけが 見ていてくれる

罪を数えて 鐘をひとつ
また次の札所へ 向かうだけ

「救われるとは思っていない」──この一行が、この曲を普通のお遍路ソングから決定的に分ける。救済を期待して歩いているのではない。ただ歩いている。その「ただ」の重さが、巡礼という行為の本質を突いている。

「重さはむしろ増えていくようだ」で笑ってしまった人、その感覚は正しい。救われない旅を続ける人間の、どうしようもなくリアルな感触がここにある。

「また次の札所へ 向かうだけ」。希望も絶望もない。ただの継続。それが四国だ。

 


第8章:広島「背負うと決めた」

バラード歌謡|参照:玉置浩二・長渕剛系

広島は「平和の都市」として世界に認識されている。

だがその内側にある感情は、もっと複雑だ。「忘れてしまえば楽なのに」という感覚は、この地に関わる人なら一度は持つものかもしれない。しかしこの曲の主人公は、忘れない選択をする。誰かのためでも、義務でもなく。ただ、そうしたいから。

 
 
【1番】
川が流れている 今日も変わらず
忘れた方が 楽に生きられる
それはわかってる わかってるけど
できない夜が 何度でも来る

重さに耐えるんじゃない
重さを選んで 歩いている

【サビ】
誰かのためじゃなくていい
義務で背負うつもりもない
ただ俺が そうしたいから
この重さを 置かないでいる

忘れることを 許さないのは
他の誰でもなく 俺自身だ

「重さに耐えるんじゃない、重さを選んで歩いている」──耐えることと選ぶことは、全く別の行為だ。耐えている人間には被害者性がある。選んでいる人間には、自発的な倫理がある。広島という都市の感情的な骨格は、この能動性の中にある。

「忘れることを許さないのは、他の誰でもなく俺自身だ」。外からの義務ではなく、内側からの選択。その強さは静かで、揺るがない。

 


第9章:沖縄「青に預ける」

沖縄ポップス|参照:BEGIN・夏川りみ系

沖縄を言葉で説明しようとすると、いつも失敗する。

あの光の色、海の深さ、風の速さ、死者と生者の境界線が薄い感覚。それは体験するものであって、説明するものではない。だからこの章だけは、説明しすぎないことを選んだ。

 
 
【1番】
青すぎる海の 前に立つと
言葉にならないものが 溢れてくる
持ちすぎていたものを そっと開いて
波に渡して また歩き始める

ここには死者も 生者もいて
風の中に 声が混ざってる

【サビ】
願いは空に 置いていく
抱えたままでは 歩けないから
海が受け取って くれるように
また明日が 来ればいい

消えないものが ここにあると
この青だけが 知っている

「ここには死者も 生者もいて」──この一行を入れることで、沖縄の持つ固有の時間軸が出る。過去と現在が地続きに存在する感覚。観光地としての沖縄ではなく、記憶の堆積した場所としての沖縄だ。

「消えないものが ここにあると この青だけが 知っている」──何が消えないのかは言わない。説明しないことで、読む人それぞれの「消えないもの」が投影できる。

沖縄の強さは、美しさと痛みの両方を「預ける」という行為の中にある。

 


この9章を読んで、気づいたことがあるはずだ

北海道の孤独。東北の恐れと規律。東京の踏み込まない優しさ。静岡の受容。名古屋の合理とロマン。大阪の笑いという防衛。四国の救われない継続。広島の選んだ重さ。沖縄の預ける祈り。

これらは対立していない。

感情の多様性が、日本という一つの文化を立体にしている。

そしてこれらの感情は、観光ガイドには書いていない。旅番組にも出てこない。だが確かにそこにある。その土地に生きた人間の、内側に。

 


AIは何をしたのか──技術論ではなく、感情論として

多度学園の校歌制作プロジェクトが示したことを、改めて整理する。

AIは702件のキーワードを整理し、1050通りのメロディを生成し、歌詞との適合度を計算した。だがその素材はすべて、人間が持っていたものだ。

地域住民の記憶、子どもたちの音楽的直感、その土地への愛着。AIはそれを分解し、組み替え、人間の感性に最も響く形に再構成した。

これは「AIが感情を作った」という話ではない。

「人間が感じていたが言葉にできなかったものを、AIが構造として取り出した」という話だ。

この違いが、これからのAIと創作の関係を考えるうえで、決定的に重要だと思う。

AIは人間を超えていない。ただ、人間自身が気づいていなかった感情の地図を、初めて見える形にした。

その地図は、ずっとそこにあった。北の雪原にも、南の海の底にも。

 


この記事を読んだあなたへ

「面白い」と思ったなら、それがAIの可能性を最も正確に言い表している。

感情を構造化し、再現し、新しい形で人に届ける。その可能性はまだ入り口にある。

多度学園の子どもたちが毎日歌う校歌のように、AIが関わった表現はこれから少しずつ、日常に溶け込んでいく。気づかないうちに。そして気づいたとき、また問いが戻ってくる。

「あれは人間が作ったのか、AIが作ったのか?」

その問いに意味があるかどうかも含めて、これから一緒に考えていきたい。

 


参考・引用情報

本記事に記載した校歌制作プロセスの事実関係は、以下の報道・発表をもとに確認しています。

  • 読売新聞「全国初のAI作詞・作曲の校歌、小室哲哉さんの助言受け完成…3拍子のゆったりと力強いメロディーに」(2026年3月)
  • 伊勢新聞「生成AI校歌、全国初完成 4月開校の桑名市「多度学園」」(2026年3月26日)
  • 音楽ナタリー「生成AIと校歌を共作!三重県桑名市の小中一貫校"校歌制作プロジェクト"記録映像公開、小室哲哉らが選曲」(2026年4月4日)
  • THE WHY HOW DO COMPANY株式会社プレスリリース(2026年)
  • iU情報経営イノベーション専門職大学プレスリリース「理研AIPとの共同研究『超校歌』」(2023年8月)

本記事中の歌詞はすべてAIによる創作物であり、多度学園の校歌の歌詞とは無関係です。