
2025年、子どものお小遣いを増やした家庭が増えている。
複数の調査を見ると、小学生(高学年)の月平均お小遣いは1,300〜1,600円台、中学生は2,800〜3,400円程度が現在の相場だ。博報堂教育財団こども研究所の調査(2023年)では小学生1,337円・中学生2,777円。塾選ジャーナルの調査(2025年3月、保護者100名)では中学生の平均は3,390円と、数年前より上昇傾向にある。増額の理由に保護者が挙げるのは「学年が上がった」に次いで「物価高への対応」だ。
物価高に対して誠実に対応しようとしている、ということは伝わる。
しかし、同じ調査に、もう一つの数字がある。
お小遣いの使い道だ。博報堂の2023年調査によると、使い道の1位は「お菓子・ジュース」で全体の約6割。2位は「本・マンガ」で約4割。上位を消費支出が独占する構図は、何年調査しても変わらない。
金額が上がった。物価も上がった。でも使い道は変わらなかった。
この「変わらなかった」の中に、日本のお金教育が長年抱えてきた構造的な問題が、静かに潜んでいる。
「消費訓練装置」としてのお小遣い
日本のお小遣い制度の設計思想は、一貫している。もらって、使って、やりくりする。これが基本形だ。
この設計が育てるものは明確だ。「与えられた予算の中で消費を最適化する力」。お菓子を買うか文房具を買うか迷う。月末まで残すか今使い切るか考える。これは消費者としての基礎スキルにはなる。
しかし裏返せば、この設計が育てないものもはっきりしている。
収入を増やす発想。お金に働かせる感覚。価値を生み出して誰かに届ける体験。予算の外側に選択肢を自分で作る力。
管理型のお小遣いは「上手な消費者」を育てることには機能するが、「お金を動かす主体」を育てることには、ほとんど機能しない。
これは親の設計が悪いのではない。制度そのものが、ある時代の前提の上に作られているからだ。
この設計はいつ、なぜ生まれたのか
日本型お小遣い制度が現在の形に定着したのは、高度成長期からバブル期にかけてだと考えられる。当時の社会的前提は明快だった。
正社員になれば終身雇用が保障される。年功序列で収入は右肩上がりになる。貯蓄しておけば老後は安心で、お金は「稼ぐ方法を工夫するもの」より「大切に使うもの」とされていた。日本銀行の調査によれば、現在でも日本の家計金融資産のうち現金・預金の割合は約54%と、米国の約13%と比べて突出して高い。「貯めて守る」という感覚は、社会の設計として長く機能してきた。
この前提のもとでは、子どもに「消費の練習」をさせれば十分だった。社会に出れば会社がお金を運んでくる。稼ぐ仕組みを子どものうちから体験させる必要は、構造的になかったのだ。
ところが2026年現在、その前提は崩れている。終身雇用の形骸化、実質賃金の長期停滞、AIによる職種代替の加速、副業・複業の常態化。さらに総務省の消費者物価指数(2025年8月)では、子どもの日常的な消費に直結する菓子類が前年比+11.5%、飲料も+9.0%上昇している。「会社がお金を運んでくれる」という確信は、もはや世代を問わず揺らいでいる。
前提が変わった。しかし設計だけが変わっていない。
「物価高だから増額」という対応に潜む皮肉
インフレとは、お金の価値が目減りしていく現象だ。今日の1,000円で買えるものが、来年は買えなくなるかもしれない。子ども自身もこの感覚を、コンビニやゲームの値上がりを通じて実感し始めている。
だからこそ「お小遣いを増やした」という対応は、表面上は合理的に見える。
しかしここに静かな皮肉がある。インフレに対応する力は、突き詰めると「支出を減らす」か「収入・資産を増やす」かの二択しかない。そのどちらも、「もらって使う」という管理型の設計では体験できない。
金額を増やして渡すことは、物価高という現実を、子どもが自分の頭で考える素材として使う機会を、親が先回りして解消してしまうことでもある。
「物価が上がっているね。同じお金で何を選ぶか、一緒に考えてみようか」。あるいは「どうすれば今より少し多くのお金を自分で作れると思う?」。そうした問いかけをしたかどうかが、金額の多寡より大きな教育的分岐点だったかもしれない。
物価高は、お金の設計を問い直す絶好のタイミングでもある。
村上世彰が小学3年生でやっていたこと
「お金を動かす主体を育てる」という文脈で、しばしば引き合いに出される人物がいる。投資家・村上世彰だ。
村上氏が初めて株を買ったのは小学3年生のとき。「お年玉などをコツコツ貯めた20万円ではまだ足りない」と父親にねだり続け、ある日「いくらほしいんだ、言ってみろ」と問われ、帯付きの100万円を渡されたという。月々の小遣い支払いを廃止する代わりに、大学卒業までの小遣いを一括で渡すという、父親の独特の教育方針だった。村上氏はその100万円を元手に、父がいつも飲んでいたサッポロビールの株を2,000株購入。これが投資家デビューだった。
なお村上氏はその後、2006年にインサイダー取引で有罪が確定している。ここで参照したいのは彼の投資成績でも人格でもなく、「お金を渡す」ではなく「お金を動かす判断を委ねた」という父親の設計思想だ。
注目すべきは金額ではなく、体験の構造だ。「消費の練習」ではなく「意思決定の体験」。「与えられた予算のやりくり」ではなく「自分の判断で結果が変わるリアル」。この設計思想は、100万円を用意できない家庭でも、小さな規模から応用できる。
国も、ようやく気づいた
実はこの「お金の設計の遅れ」は、家庭だけの問題ではない。国もようやく動き始めている。
2022年4月、高校の新学習指導要領が改訂され、家庭科の授業で「資産形成」の視点が必修化された。株式・債券・投資信託といった金融商品の特徴を学び、生涯を見通した経済計画を立てる内容が加わったのだ。文部科学省の表現を借りれば、これまでの「無駄づかいしない・だまされない」という消費者目線から、お金を増やす「投資家目線」への転換だ。
これを見れば、国自身が「これまでの金融教育は消費者しか育ててこなかった」と認めたに等しい。
しかし皮肉なのは、この教育が始まるのが「高校」だという点だ。子どもがお金に対する基本的な態度を形成するのは、もっと早い段階だ。高校で概念を学ぶより、小学生のうちに体験として積む方が、はるかに深く残る。学校が高校まで待つなら、その前の段階を埋められるのは家庭しかない。
「渡し方」を変えると、何が変わるのか
具体的な提案を一つだけ挙げるとすれば、お小遣いを3つの役割に分けて渡すことだ。
消費枠は従来通りの自由に使うお金。目標枠は読書・お手伝い・勉強など努力や成果に連動した報酬で、「働いてお金を得る」感覚の入口になる。挑戦枠はフリマ出品、ハンドメイド販売、あるいは家族向けの小商売など、失敗込みで自由に動かす小さな資金だ。
封筒3枚で今日から始められる。金額は今のままでいい。
ただし一点だけ、注意がある。目標枠=成果報酬制には副作用がある。「お金がもらえないならやらない」という打算的な思考を育てるリスクだ。お手伝いを金銭報酬に紐づけることへの抵抗感は家庭によって大きく異なる。唯一の正解はなく、子どもの性格と家庭の価値観に合わせた調整が必要だ。重要なのは制度の「正しさ」より、子どもがお金と向き合う機会の設計そのものだ。
お小遣いは、社会観の縮図だ
子どもへのお小遣いの渡し方は、「節約しなさい」「大切に使いなさい」という言葉の反映であると同時に、親世代が無意識に持っているお金と社会の関係についての世界観の反映でもある。
「もらって使う」モデルは、「社会とはお金を与えてくれる場所」という感覚の上に成り立っている。「稼いで動かす」モデルは、「社会とはお金を通じて価値を交換する場所」という感覚から生まれる。
どちらが正しいかではない。ただ、物価が上がり、雇用の形が変わり、国の教育指針ですら「消費者教育だけでは足りない」と認めた今、子どもに渡している設計が何を前提にしているかを問い直す価値はある。
増額する前に、渡し方を問い直す。その小さな設計変更が、金額の差よりずっと大きな何かを、子どもの中に育てるかもしれない。
参考データ:博報堂教育財団こども研究所「令和5年のおこづかい事情」(2023年9月)/塾選ジャーナル「中高生のお小遣いについての調査」(2025年3月、N=100)/総務省消費者物価指数(2025年8月)/文部科学省「高等学校学習指導要領解説 家庭編」(2022年4月施行)/日本銀行「資金循環の日米欧比較」