
演劇・コントユニット
ダウ90000 の蓮見翔がテレビで語った。
「全員貧乏」
「売れようとしてない?」
「売れるのがダサい空気がある」
文脈としては“演劇界あるある”の笑い話だ。
だが、ヤフコメを見ると肯定的な反応はほぼなかった。
なぜか。
問題は「売れないこと」ではない。
問題は「売れないことを誇る態度」にある。
テレビは5%を切れば終わる
テレビ番組には残酷な基準がある。
ゴールデンなら10%前後が一つの目安。
深夜帯なら5%前後が存続ライン。
(時間帯で基準は変わるが、ゼロに近づけば終わる。)
30%は国民的ヒットだ。
だが30%は必要ない。
しかし、5%を切れば番組は続かない。
つまりこうだ。
30%の大衆迎合は不要。
だが5%の実視聴がなければ存在できない。
これは善悪ではない。構造の話だ。
スポンサーがいる限り、
「誰も見ていない番組」は物理的に存続できない。
演劇は終わらない
演劇は違う。
・小劇場
・低予算
・身内動員
・副業や親の支援
・赤字でも続けられる構造
観客が極端に少なくても、存続できる。
ここにズレが生まれる。
市場のフィードバックを受けなくても、
態度だけは維持できる。
「売れるのがダサい」と言える。
だがテレビの世界で
視聴率1%未満の番組が
「迎合してない」と胸を張ったらどうなるか。
翌クールで終わる。
ヒロトの言葉は矛盾していない
甲本ヒロト は言った。
「売れているものが良いものなら、世界一うまいラーメンはカップラーメンになる」
同時に、こうも言っている。
「親に養ってもらってる立場で何か言ってもしょうがない」
この二つは矛盾しない。
ヒロトは
「売れている=良い」とは言っていない。
だが
「市場と無関係でいい」とも言っていない。
実際、彼は売れた。
批判は市場の外からではなく、
市場の中で成立している。
ここが重要だ。
ダンバー数という最低単位
人間が安定的に関係を持てる上限は約150人。
いわゆるダンバー数だ。
SNSフォロワー150人は
存在証明の最小単位に近い。
500人いれば
小劇場公演は回る可能性がある。
3万〜5万いれば
社会的に“見える”存在になる。
これは絶対基準ではない。
だが目安にはなる。
問題は、150にも届かない状態で
「売れるのはダサい」と言うことだ。
それは
市場批評ではなく、単なる未接続だ。
グラビアはもっと残酷だ
グラビアの世界では
届かなければ呼ばれない。
フォロワー、売上、イベント動員。
列ができるかどうかで次の仕事が決まる。
例えば
えなこ
沢口愛華
クラスになると、
数字がそのまま影響力になる。
ここでは「迎合してない」は通用しない。
呼ばれなければ終わりだ。
問題は“売れないこと”ではない
売れないことは罪ではない。
迎合しないことも罪ではない。
だが、
・観客がほぼいない
・批評が生まれない
・循環がない
・市場との接点がない
それでも
「売れるのはダサい」と言うなら、
それは
負け惜しみに聞こえてしまう。
厳しいが、構造的にそう見える。
5%とは何か
5%とは、
・自力で循環する観客
・再生産できる収益
・外部からの批評
・呼ばれる理由
これがある状態。
30%はいらない。
だが0%では存在しない。
結論
私は「売れろ」とは言っていない。
言っているのはこれだけだ。
売れなくていい。
だが、届け。
届かないことを誇るな。
市場を否定するなら、
市場の中で力を持ってから否定しろ。
それができないなら、
少なくとも力を持たないことを
美徳にするな。
芸術の純粋性は尊い。
だが、
可視性ゼロの純粋性は
社会的には存在しないのと同じだ。