
はじめに
私たちは今、音楽との関わり方が根本的に変わりつつある時代に生きています。SpotifyやApple Musicで指先ひとつで何百万曲にもアクセスできる一方で、音楽について深く語る場所は減り続けています。音楽雑誌は次々と休刊し、批評家の声は届かなくなり、代わりにSNSでは「この曲に元気をもらった」「推しが最高」という言葉が溢れています。
かつて音楽批評は、ロックやジャズ、クラシック音楽の世界で重要な役割を果たしていました。しかし2020年代の現在、批評はほとんど機能していません。音楽メディアは広告記事とインタビューばかりになり、原稿料は下がり続け、批評を書く人も読む人も減少の一途をたどっています。
なぜ音楽批評は消えつつあるのか。それは単なる経済的な問題なのか、それとも音楽文化そのものに構造的な理由があるのか。本記事では、音楽が芸能化・宗教化してしまった理由、デジタル時代が生んだ変化、そして外側からの批評が成立するジャンルとの比較を通して、この問題を多角的に考察します。
この議論は音楽にとどまらず、現代の文化全体を貫く本質的な問いにつながっています。
第1章:音楽批評が直面する三つの現実
1-1. 経済的困窮
音楽批評を取り巻く経済状況は極めて厳しいものがあります。
原稿料の低下
かつて音楽雑誌の批評記事は、それなりの対価が支払われていました。しかし現在、多くの音楽メディアでは原稿料が大幅に下がり、専門性を持った書き手が生活できない構造になっています。文字単価1円を下回るケースも珍しくありません。
媒体の消滅
『rockin'on JAPAN』をはじめとする多くの音楽雑誌が休刊し、批評を掲載する場所そのものが減少しています。ウェブメディアも、PVが取れる芸能ニュースやインタビュー記事に偏り、批評記事は敬遠されます。
1-2. 機能的な無価値化
批評しても誰も得しない
アーティストは批判されることを嫌い、レーベルは売上への悪影響を恐れ、読者は面倒な分析を求めていません。批評は、関係者の誰のためにもならない行為になってしまいました。
批評が好意的であれば宣伝になりますが、それはもはや批評ではなく広告です。批判的であれば関係性が悪化し、次の取材機会を失います。音楽ジャーナリズムは、構造的にPR化せざるを得ない状況にあります。
1-3. 内輪化の罠
閉じたコミュニティ
批評を読むのは、同じく批評を書く人か、ごく一部の音楽マニアだけです。一般のリスナーには届かず、影響力を持ちません。批評は「批評家のための批評」となり、自己完結したサークル活動のようになっています。
これらの問題は、単に「お金がない」「評価されない」という表層的な話ではありません。ここにあるのは、音楽批評という行為そのものが、現代の音楽市場・文化構造と機能的に衝突しているという深刻な現実です。
1-4. 批評は本当に「死んだ」のか
しかし、批評は本当に死んだのでしょうか。いや、正確には「死んだ」のではなく、機能的に排除され、地下に潜ったと言うべきでしょう。批評する行為自体は消えていません。ただ、それが表に出る回路が閉ざされ、見えなくなっただけなのです。
では、なぜ批評は排除されたのか。それを理解するには、まず批評が機能していた時代を振り返る必要があります。
第2章:批評が機能していた時代

2-1. 黄金期の音楽批評
かつて音楽批評は力を持っていました。
1960年代から1990年代にかけて、ロック批評はカウンターカルチャーの一部でした。日本では渋谷陽一、中村とうよう、ピーター・バラカンといった批評家の言葉が、リスナーの音楽的嗜好を形成しました。『ロッキング・オン』『ミュージック・マガジン』『CROSSBEAT』などの雑誌は、音楽ファンのバイブルでした。
海外では、Rolling Stone、NME、Pitchforkといったメディアが、アルバムのレビューでキャリアを左右する力を持っていました。批評家の一言が、アーティストの評価を決定づけることもありました。
2-2. なぜ当時は批評が機能したのか
批評が力を持っていた理由は、明確です。
① メディアが限られていた
情報源はラジオ、雑誌、レコード店の推薦コーナーのみ。批評家は情報の門番として機能していました。
② 音楽消費にコストがかかった
レコードやCDは高価で、買う前に情報が必要でした。ライブチケットも貴重でした。失敗したくないから、批評を読んで判断した。
③ 情報の非対称性が大きかった
批評家は業界に精通し、海外の動向も知っていました。一般リスナーがアクセスできない情報を持っていたのです。
④ 文化的権威が存在した
「良い音楽」「価値ある音楽」という共通認識があり、批評家はその番人でした。
2-3. すべてが変わった2000年代以降
しかし2000年代以降、デジタル化がすべてを変えました。情報は民主化され、消費のコストは限りなくゼロに近づき、批評家の特権的地位は消滅しました。
この変化を理解せずに、音楽批評の衰退は語れません。
第3章:デジタル時代が変えたもの

3-1. アルゴリズムによる発見
音楽批評の衰退において、デジタル化の影響は決定的です。
レコメンドエンジンの台頭
Spotifyのレコメンド機能は、批評家より正確に「あなたが好きそうな曲」を提示します。リスニング履歴から嗜好を分析し、パーソナライズされた提案をします。批評家の主観的な言葉より、アルゴリズムの客観的なデータのほうが、多くの人にとって有用なのです。
発見の民主化
かつて批評家が担っていた「新しい音楽との出会い」は、今やアルゴリズムとSNSが担っています。TikTokで曲がバズれば、批評家の評価など無関係に大ヒットします。
3-2. 情報の民主化
誰でも批評できる時代
ブログ、YouTube、X(旧Twitter)、note。誰でも音楽について語れる時代になりました。批評家の特権性は消失し、無数の「意見」が氾濫しています。
プロの批評家と素人の境界線は曖昧になり、「批評」という行為自体の価値が希薄化しました。
3-3. 即時消費の加速
無限の選択肢、ゼロの時間
サブスクリプションサービスで、何百万曲もが聴き放題です。一曲ごとに立ち止まって考える余裕はありません。気に入らなければスキップ。次、次、次。
この消費スタイルは、深く考える批評的姿勢と対極にあります。
3-4. SNSとバイラリティの時代
拡散が価値を決める
音楽の価値は、批評家の評価ではなく、SNSでのバズで決まるようになりました。再生数、いいね数、シェア数。数字が可視化され、それ自体が評価軸になります。
批評は、この数値化された評価システムに居場所を失いました。
第4章:音楽は「人依存」になりやすい
4-1. 作品より人が前に出る構造
デジタル化の影響に加えて、音楽というメディア自体の構造的特性も、批評の衰退に関係しています。
音楽は、他のジャンル(映画、小説、美術など)と比較して、「作品」より「人」に依存しやすい構造を持っています。これは音楽の本質的な特性から生まれる必然です。
4-2. なぜ音楽は人に依存しやすいのか
① 再生コストがほぼゼロ
映画は2時間、小説は数時間から数日かかります。しかし音楽は3分で聴けます。ワンクリックで再生でき、途中で止めても損失が少ない。この手軽さが、作品単体の重みを薄くします。「聴いてみたけど合わなかった」で終わり、深く考える機会が生まれにくいのです。
② 体験が内面化される
音楽は気分、状況、思い出、生活と結びつきやすいメディアです。「この曲を聴くとあの時の記憶が蘇る」「失恋した時に聴いた曲」といった形で、評価が「私の体験」に強く依存します。作品を客観的に分析するよりも、「私にとってどうだったか」が優先されるのです。
③ 顔・声・人格が不可分
音楽は演奏者の声、顔、身体性と切り離せません。ライブ体験、インタビュー、SNSでの発言など、作り手の人格や物語が直接作品の価値と結びつきます。小説家の顔を知らなくても小説は読めますが、歌手の顔を知らずに音楽を聴く人は少数派です。
4-3. 結果としての人依存
こうした構造の結果、J-POPやアイドル音楽では「誰が歌っているか」が消費の中心になります。「この曲がどう作られているか」「どんな音楽的特徴があるか」ではなく、「推しが歌っている」「この人の声が好き」が価値の源泉になるのです。
こうなると、作品を対象とする批評は成立しにくくなります。なぜなら、批評は「作品」を分析するものであり、「人への好き嫌い」を扱うものではないからです。
第5章:芸能化の必然性
5-1. 「芸能」とは何か
音楽が人依存である以上、自然に「芸能」として消費されます。ここで言う「芸能」とは、次のような状態を指します。
- 作品より人が前に出る
- 評価より応援・好感が価値の中心
- 思考より消費や感情が優先される
芸能化した音楽では、「この曲は音楽的にどうか」という問いは意味を持ちません。「この人を応援したい」「この人が頑張っている姿を見たい」という感情が消費の核になります。
5-2. 音楽の芸能化が意味するもの
芸能化とは、音楽が「考えさせる文化」ではなく、人を消費する娯楽として機能することを意味します。作品ではなく、人格や物語が売られる。批評が入り込む余地のない、感情消費の構造が完成します。
これは決して、芸能が悪いという話ではありません。ただ、音楽には芸能以外の可能性もあったはずだという問いは、常に残り続けます。
5-3. 芸能化は避けられない
しかし残酷なことに、音楽の構造的特性を考えれば、芸能化はある程度避けられません。手軽で、内面化され、人格と不可分な音楽は、批評的距離を取りにくい。感情的に消費されやすい。それが音楽というメディアの宿命なのです。
第6章:「元気を貰う音楽」と宗教性

6-1. 芸能化から宗教化へ
第5章で論じた「芸能化」と、これから論じる「宗教化」は、どう関係するのでしょうか。
芸能化は宗教化の準備段階
芸能化によって「人への依存」が完成すると、次の段階として宗教的機能が発動します。
- 芸能 = 娯楽的消費(軽い、表層的、楽しむ)
- 宗教 = 救済的依存(重い、深層的、救われる)
人を消費する文化が、やがて人に救われる文化になる。これが芸能化から宗教化への移行です。
応援していたアーティストが、いつの間にか「生きる支え」になる。楽しみが、依存に変わる。この変化は自然で、気づかないうちに進行します。
6-2. よくある感想の正体
「音楽から元気を貰った」
「この曲に救われた」
「ライブで感動した」
こうした感想は、音楽について語る時に最も頻繁に使われる言葉です。しかし、問わなければならないのは、これは本当に「音楽」から得られたものなのかということです。
6-3. 音楽が宗教化する理由
結論から言えば、多くの場合、「元気を貰った」のは音楽そのものではなく、芸能的体験や宗教的機能を伴った体験です。
音楽が宗教化する三つの機能を見てみましょう。
① 救済機能
日常の孤独や不安を和らげる。辛い時に聴く曲、傷ついた心を癒す音楽。音楽は心の避難所として機能します。
② 共同体機能
ファン同士の連帯感。ライブ会場での一体感。同じアーティストを好きな人とつながる喜び。音楽は所属の証として機能します。
③ 人格崇拝
歌手や演奏者への依存。「この人がいてくれるから頑張れる」という感情。音楽は信仰対象として機能します。
6-4. 安全な世俗宗教
つまり、「元気を貰う音楽」は安全な世俗宗教のような機能を持っているのです。宗教ほど強制力はないけれど、救済や共同体や信仰の対象としては十分に機能する。だからこそ、多くの人が音楽に依存し、音楽を必要とします。
そして、ここに批評が入り込む余地はありません。なぜなら、批評はこの構造にとって敵となる存在だからです。
6-5. デジタル化は宗教化を加速させる
ここで重要な問いがあります。音楽の宗教化は昔からあったのか、それとも現代特有の現象なのか? 答えは両方です。しかし、デジタル化は宗教化を劇的に加速させました。
① アルゴリズムのエコーチェンバー
あなたが好きなものを推薦し続けることで、ファンダムは純化され、先鋭化します。批判的視点に触れる機会は減り、信仰はより強固になります。
② SNSでの可視化と強化
「推し」への愛を公言し、同志と繋がることで、個人的な好みが集団的信仰へと変化します。いいね数が信仰の深さを測る指標になります。
③ 無限選択による思考停止
選択肢が多すぎるとき、人は考えることをやめます。深く吟味するより、「元気をもらえる」安全な答えに飛びつく方が楽なのです。
デジタル化は、批評を不要にしただけでなく、音楽の宗教化という新たな問題を生み出したのです。
第7章:批評はなぜ敵になるのか

7-1. 批評の本質
批評の本質は「問いを立てること」です。
- なぜそう感じたのか?
- 何が効いたのか?
- 本当に救われたのか?
- その感動は操作されたものではないか?
批評は、受け取った体験を一度疑い、分解し、構造を明らかにしようとします。これが本質的批評です。
7-2. 救済との衝突
これに対して、「救済・元気・感動」を提供する音楽体験は、問いを止め、答えを与える機能を持っています。
「辛い時はこの曲を聴けばいい」
「このアーティストがいれば大丈夫」
「ライブに行けば元気になれる」
これらは答えです。思考停止の安らぎです。そこに問いは必要ありません。むしろ、問いは安らぎを壊す邪魔者です。
7-3. 必然的な対立
したがって、批評が嫌われるのは「冷たいから」ではなく、ジャンルの機能との衝突による必然なのです。
宗教的機能を持つ音楽にとって、批評は信仰を揺るがす異端審問官のような存在です。「元気を貰った」という体験を「それは錯覚かもしれない」と問い直す批評は、救済の否定として受け取られます。
だから、批評は排除されます。嫌われます。必要とされなくなります。
7-4. 命題化すると
ここまでの議論を一つの命題にまとめましょう。
批評が敵視されるほど、そのジャンルは宗教化している。
この命題は音楽だけでなく、アイドル、スポーツ、アニメ、投資界隈などにも当てはまります。
- 批評 = 問い、分析、距離
- 文化 = 救済、信仰、応援
- 衝突 = 必然的
本質的批評が成立しないジャンルは、すでに宗教化しているのです。
第8章:批評が成立するジャンルとの比較
8-1. まだ批評が生きているジャンル
一方で、批評がまだ一定の機能を果たしているジャンルも存在します。
- 映画(特にアート系、国際映画祭作品)
- 現代美術・写真
- 建築
- 純文学
- クラシック音楽
- ジャズ
- 一部のインディーロック
これらには共通点があります。
8-2. 批評が成立する条件
① 消費が即時ではない
映画は2時間、小説は数日かかります。簡単に消費できないからこそ、作品を選ぶ際に情報が必要とされます。
② 評価に時間差・文脈が必要
現代美術や建築は、背景知識がないと理解できません。批評はナビゲーターとして、また教育者として機能します。
③ 国際性や歴史性があり、内輪化しにくい
映画や文学には世界的な評価軸があります。特定のファンコミュニティだけで完結しないため、外部からの客観的視点が意味を持ちます。
④ 宗教化の度合いが低い
これらのジャンルにもファンダムは存在しますが、音楽やアイドルほど強い宗教性を帯びていません。批評を敵視する構造が相対的に弱いのです。
8-3. J-POPやアイドル音楽との対比
逆にJ-POPやアイドル音楽は、次のような特徴を持ちます。
- 即時消費・応援型の文化
- 評価に時間差や文脈が不要
- 内輪化しやすく、ファンコミュニティで完結
- 強い宗教性(救済・共同体・崇拝)
だからこそ、本質的批評は成立しにくいのです。批評を必要としない構造が、すでに完成しているのです。
第9章:「アニメとラーメン」二種類の批評

9-1. 選択補助としての批評
興味深いことに、アニメとラーメンというジャンルでは、「批評」がまだ一定の機能を果たしているように見えます。
アニメとラーメンには、次のような共通点があります。
① 量が多く選択肢が広い
毎シーズン何十本ものアニメが放送され、街には無数のラーメン店があります。選択肢が多すぎて、個人では判断しきれません。
② 「語りたい人」が多い
アニメもラーメンも、熱心なファンが多く、語る文化が根付いています。
③ 情報がナビゲーションとして機能する
「今期何を見るべきか」「どの店に行くべきか」という実用的な問いに、レビューや評価が答えてくれます。
9-2. しかしそれは「本質的批評」ではない
ここで重要なのは、アニメやラーメンで機能しているのは本質的批評ではなく、選択補助としての情報提供だということです。
二種類の「批評」を区別する必要があります。
選択補助としての批評:
- 「どれを選ぶべきか」(消費の最適化)
- 「おすすめは何か」(効率的な満足)
- 実用的、実務的
本質的批評:
- 「なぜそう感じたのか」(認識の問い直し)
- 「この作品の価値は何か」(文化的評価)
- 思考的、批判的
「今期のおすすめアニメ5選」は前者です。「なぜこのアニメは私たちを不安にさせるのか」は後者です。
9-3. アニメも宗教化している
実際、アニメファンダムは強い宗教性を持っています。
- 推し文化(人格崇拝)
- 聖地巡礼(信仰実践)
- 批判への激しい反発(異端の排除)
アニメで機能しているのは「選択補助」であり、本質的批評は排除されています。好きな作品を批判的に分析する言説は、ファンコミュニティから激しく攻撃されます。
9-4. 批評の変容
つまり、現代で生き残っている「批評」の多くは、本質的批評ではなく、選択補助に変容した情報提供なのです。
批評は、かつてのような「価値を問う」存在ではなく、「選択を助ける」実用的サービスへと変化しています。これは批評の衰退であると同時に、適応でもあります。
第10章:海外との比較ー日本特有の問題か
10-1. 海外の音楽批評の現状
音楽批評の衰退は、日本だけの問題ではありません。
アメリカでも状況は似ています。Pitchfork、Rolling Stone、NPR Musicなどの有名メディアは存続していますが、影響力は明らかに低下しています。かつてPitchforkの点数がアルバム販売を左右した時代は終わりました。
海外でも同じ構造:
- ストリーミングの台頭
- アルゴリズムによる発見
- SNSでのバイラリティ
- 批評家の権威の失墜
10-2. 日本特有の要素
ただし、日本には特有の問題もあります。
① アイドル文化の浸透
J-POPの多くがアイドル的消費構造を持ち、作品より人格が重視されます。この傾向は海外より強い。
② 批判を避ける文化
和を重んじる文化的背景から、批判的言論が育ちにくい土壌があります。
③ 音楽メディアの貧困
欧米に比べて独立系音楽メディアが少なく、レーベルやプロモーション会社との癒着が強い。
④ ジャンルの多様性の欠如
インディー、オルタナティブといった批評的言論が成立しやすいシーンが、日本では相対的に小さい。
10-3. グローバルな問題と日本的特殊性
音楽批評の衰退は、グローバルなデジタル化の必然的帰結です。しかし日本では、文化的・構造的要因がそれを加速させています。
第11章:結論ー音楽批評の死と宗教化の必然
11-1. 七つのポイント
ここまでの議論を整理すると、次のように理解できます。
① デジタル化が批評の存在基盤を破壊した
アルゴリズム、情報の民主化、即時消費。批評が担っていた機能は、テクノロジーに取って代わられました。
② デジタル化は宗教化を加速させた
エコーチェンバー効果、SNSでの可視化、無限選択による思考停止。デジタル技術は、音楽の宗教化という新たな問題を生み出しました。
③ 音楽は作品より人に依存しやすく、芸能化が避けられない
音楽の構造的特性(再生コストゼロ、体験の内面化、人格との不可分性)が、芸能化を促進します。
④ 芸能化は宗教化の準備段階である
人を消費する文化(芸能)が、人に救われる文化(宗教)へと深化します。
⑤ 音楽が救済や元気を与える宗教的機能を持つと、批評は必然的に敵になる
救済と批評は構造的に衝突します。問いは、答えを求める人にとって邪魔なのです。
⑥ 批評が敵視されるほど、そのジャンルは宗教化している
批評の排除は、宗教化の指標です。この命題は音楽を超えて、あらゆる文化領域に適用できます。
⑦ 選択補助としての批評は生き残るが、本質的批評は地下に潜る
批評は実用的ナビゲーションとして変容し、思考的営みとしては周縁化されます。クラシックやジャズのような特殊な生態系を除いて、本質的批評の居場所は失われました。
11-2. 言い換えれば
音楽批評は死んだのではなく、機能的に排除され、地下に潜っただけです。
批評は、芸能化・宗教化の構造的必然、そしてデジタル化の技術的必然と衝突しているため、表には出られません。しかし、目立たないけれど不可欠な存在として、地下で問いを立て続けています。
批評を書く人は、報われないかもしれません。読まれないかもしれません。経済的に成立しないかもしれません。それでも、批評は必要です。なぜなら、問いを立てることをやめた文化は、思考停止した宗教になるからです。
第12章:批評と音楽の未来

12-1. 新しい批評の形を模索する
では、これからの音楽批評はどうあるべきでしょうか。
① 「芸能化・宗教化・デジタル化」を前提にした新しい批評の形
批評は、これらの現実を否定するのではなく、その構造を理解した上で機能する必要があります。
② 感情と分析を両立させる表現
「冷たい批評」ではなく、感情を尊重しながら問いを立てる批評。救済を否定せず、しかし盲信も許さない批評。
③ 音楽を「答え」として消費する文化への挑戦
音楽は答えではなく、問いです。その問いを開き続けることが、批評の使命です。
④ ニッチでも良い、深度を持つ
大衆に届かなくても、少数の読者と深く対話する批評。量より質、拡散よりも深化。
⑤ 選択補助と本質的批評の両立
実用性を提供しながら、その先に思考を促す。入り口は広く、奥行きは深く。
12-2. クラシックやジャズから学ぶ
興味深いことに、クラシック音楽やジャズの世界では、批評がまだ一定の機能を保っています。
しかし誤解してはいけません。これらのジャンルにも強烈な宗教性は存在します。
グールド信者の熱狂、カラヤン派とフルトヴェングラー派の対立、ジャズ純粋主義者の排他性。「本物のジャズ」「正統なクラシック」をめぐる激しい論争。これらは明らかに宗教的な様相を呈しています。
では、なぜ批評が共存できるのか?
① 聴衆の規模が小さく、教育水準が高い
クラシックやジャズの聴衆は、相対的に高学歴・高所得層に偏っています。批評的態度そのものが文化資本として機能する特殊な環境です。批評を読むこと自体が、エリート性の証明になります。
② 歴史的蓄積が厚い
何十年、何百年にわたる演奏解釈の違いを語る伝統が確立されています。「この演奏とあの演奏の違い」を論じることが、鑑賞の一部になっているのです。
③ 商業的圧力が相対的に小さい
J-POPほどの市場規模がないため、批評を排除する経済的動機が弱い。レーベルも、批判的レビューを過度に恐れる必要がありません。
④ 「作品」と「演奏」の分離
ベートーヴェンの交響曲という「作品」と、カラヤンの「演奏」は分離可能です。演奏家を批判しても、作曲家への信仰は揺らぎません。この構造が、批評に余地を残しています。
結論: 特殊な生態系
つまり、クラシック・ジャズは「宗教化していない」のではなく、宗教化と批評が並存できる特殊な生態系なのです。
この生態系は、エリート文化という限定的な条件下でのみ成立します。大衆化すれば、おそらく批評は排除されるでしょう。実際、クラシックの「ポップス化」が進む領域(映画音楽、クロスオーバー)では、批評は機能しにくくなっています。
J-POPやロックにも、こうした要素を取り入れる可能性はあります。歴史性、文脈性、解釈の多様性を重視する批評の復権です。しかしそれは、大衆性を放棄することを意味するかもしれません。
12-3. 批評家の孤独
批評家は孤独です。読まれず、嫌われ、報われない。しかし、それでも書き続けなければなりません。なぜなら、誰かが問いを立て続けなければ、文化は停滞するからです。
批評は抵抗です。思考停止への抵抗。安易な消費への抵抗。宗教化への抵抗。
その抵抗は、地味で、目立たず、評価もされないかもしれません。しかし、文化が文化であり続けるために、不可欠な営みなのです。
12-4. 一文で締めると
批評が敵になる瞬間、文化は宗教化する。
音楽批評は死んでいない。ただ、地下に潜り、問いを立て続ける使命を負っているだけだ。
おわりに

この記事は、音楽文化の構造と批評の機能を整理し、なぜ批評が排除されるのかを多角的に考察する試みでした。
音楽批評の衰退には、三つの要因が絡み合っています。
- デジタル化 ー テクノロジーが批評の機能を代替した
- 音楽の構造的特性 ー 人依存、芸能化、即時消費
- 宗教化 ー 救済機能と批評の衝突
これらは相互に強化し合い、批評を周縁へと追いやりました。
しかし、「音楽は元気をくれるだけの娯楽ではない」ことを理解すると、初めて批評の価値や存在意義が見えてきます。音楽は、救済でもあり、問いでもある。その両面を受け入れることが、これからの音楽文化には必要なのではないでしょうか。
批評は死んでいません。地下で、静かに、しかし確実に、問いを立て続けています。
アルゴリズムは「あなたが好きそうな曲」を教えてくれますが、「なぜあなたはその曲が好きなのか」は教えてくれません。
SNSは「バズった曲」を教えてくれますが、「なぜその曲はバズったのか」「それは本当に良い曲なのか」は教えてくれません。
ファンコミュニティは「推しが最高」と言いますが、「なぜ推しが最高なのか」「本当に最高なのか」という問いは許されません。
その問いに耳を傾ける人がいる限り、音楽は宗教ではなく、文化であり続けるでしょう。
批評とは、立ち止まることです。
消費の速度を緩め、感情を疑い、構造を問うこと。
それは不人気で、非効率で、時代遅れかもしれません。
しかし、思考することをやめた瞬間、私たちは文化を失います。
音楽批評は、その最後の砦なのです。