
最近、私はビデオゲームを途中でやめてしまう、個人的な癖に悩んでいます。
その理由は、ゲームというメディアが抱える、ある構造的な問題にあるのではないかと考えるようになりました。それは、ゲームが提供する「即時的な快楽(勝利や報酬の興奮)が、その裏にある長期的なメッセージや深みを覆い隠してしまう」というジレンマです。
ビデオゲームは今や、現実の責任を負うことなく、競争心や攻撃性を爆発させられる安全な「解放の場」です。しかし、この「即時的な快楽」こそが、私がゲームを長く続けられない最大の原因なのです。
快楽が尽きると、すべては作業になる
私がゲームを飽きるのは、「快楽が陳腐化するスピード」が「ゲームの真のテーマが心に届くスピード」を常に上回ってしまうからです。
ゲームデザインは、基本的に「行動 課題 報酬」という強い「報酬ループ」で成り立っています。
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快楽の陳腐化: ゲーム開始当初、新しい武器や敵を倒す快感はとても新鮮です。しかし、システムを理解し、敵を倒すことが単なる作業になると、快感は急速に色褪せます。
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メッセージの不在: その快楽が尽きたとき、ゲームが私を繋ぎとめるには、「この行為は単なる作業ではない」と思わせてくれる、深いテーマや意味が必要です。
報酬ループの快楽がメッセージを覆い隠し、その快楽が尽きたとき、残るのは何も響かない単調な作業だけです。私がゲームを飽きてしまうのは、この快楽とメッセージのバランスを失ってしまったゲームデザイン側の結果だと感じています。これは、私自身の集中力の問題というより、ゲームというメディア特有の構造的な現象なのかもしれません。
「信長の野望」や「シムシティ」を途中でやめるのもこれです。初期の知的な快楽が、成功によって単なる単調な作業に変わってしまうと、もう続ける理由が見つからないのです。
「テトリス」に見る、私の理想の体験
そんな私でも、『テトリス』には深い芸術性を感じました。これは、即時的な快楽とテーマが完全に一体化しているという、極めて稀な例外です。
テトリスは、ブロックを消す快楽が「秩序の創造」であり、同時に「やがて破綻する運命」という普遍的なテーマと向き合う行為です。快楽を追求する行為そのものが、テーマを深く掘り下げているのです。
この成功の鍵は、テトリスが「抽象性」に徹している点にあります。そこに具体的な暴力や物語がないため、快楽がテーマを覆い隠す余地がないのです。
この「快楽とテーマの合一」という基準で見ると、私が飽きてしまう多くのゲームは、私にとってはただの「メッセージの薄い娯楽」に過ぎなくなってしまうのかもしれません。
結び:飽きっぽい私の個人的な願い
私は、「そもそもビデオゲームに芸術性は必要か?」と問われれば、「必要だ」と答えます。なぜなら、芸術性が欠如したゲームは短命であり、私が飽きてしまうからです。
ゲームの未来は、「いかに飽きさせない報酬を用意するか」というテクニックの問題ではなく、「昇華されたその行為に、どれだけ深い意味を込めることができるか」にかかっていると、私は個人的に思っています。
快楽の報酬を追う手を一瞬止めさせ、「私が今やっているこの行為に、どんな意味があるのだろうか?」と、ふと思いを馳せさせてくれる瞬間。その個人的な願いを満たしてくれるゲームこそが、飽きっぽい私のようなプレイヤーの心を掴んで離さない、唯一無二の体験を与えてくれるのだと、そっと願っています。