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【芸人論】ものまねは「ツール」か「作品」か?一流芸人が苦悩する理由を徹底考察

なぜ「ものまね芸」は、軽いと見なされるのか?(イメージ)

先日、ものまね芸人の原口あきまささんが、明石家さんまさんの「憑依」を続けた結果、「自分」を見失いそうになったという葛藤を語り、大きな話題になりました。彼の言葉には、「人の姿を借りて笑いを取っている。これを芸と言っていいのか」という、ものまね芸人が共通して抱えるであろう深い悩みが詰まっていました。

私もこの言葉をきっかけに、なぜものまね芸は漫才やコントに比べて「軽い」と見なされがちなのか、その謎を深く掘り下げてみました。そして、いくつかの考察を経て、私なりに納得できる答えにたどり着きました。この答えは、お笑い芸人という職業が持つ、単なる「面白い」だけではない、深く厳しい側面を浮き彫りにするものでした。

 


 

誰もが感じる「違和感」の正体

私たちは、ものまね芸と聞くと、どこか親しみやすい「お遊び」の延長線上にあるように感じてしまいます。一方で、漫才やコントには、それとは異なる「立派な芸」という印象を抱くのではないでしょうか。

この感覚の差は、一体どこから生まれるのでしょうか。その謎を解き明かすために、私はまず、ものまね芸が持つ「手軽さ」に注目しました。

カラオケや飲み会の席で、「ちょっとやってみてよ」と無茶振りされても、すぐに笑いを生み出せる。これは他の芸にはない、ものまね芸の最大の強みです。特別な準備や大掛かりな舞台がなくても成立する、その即効性と汎用性は、人々を笑顔にする上で非常に優れた特性と言えます。

しかし、この「手軽さ」こそが、ものまね芸が「軽い」と見なされる一因ではないか、と考えました。一瞬のインパクトで笑いを取る「一発芸」もまた、その手軽さゆえに、芸としての「重み」や「深み」を評価されることは少ないでしょう。ショーパブという、お酒や食事を楽しみながら気軽に笑いを消費する場が、ものまね芸の主戦場であった歴史も、このイメージを助長しているのかもしれません。

 


 

ものまね芸は「コピー」なのか、それとも…

しかし、ものまね芸を単なる「手軽な芸」として片付けることには、どうも腑に落ちない部分が残りました。たとえば、松村邦洋さんが演じるビートたけしさんのものまねは、単なる声帯模写や形態模写を超え、まるでその人物の人生や哲学を体現しているかのように感じられます。

そこで、私たちは「ものまね芸は『コピー』なのか」という問いにたどり着きました。漫才やコントは、芸人自身の発想から生まれる「オリジナル」な創作です。一方、ものまね芸は、すでに存在する人物という「元ネタ」ありきです。

この「オリジナルか、コピーか」という違いこそが、ものまね芸が他の芸に比べて低く見られる根本的な理由ではないか、という仮説が浮上しました。どれほど高い技術で再現しても、それは「借り物」に過ぎないのではないか、と。原口あきまささんの葛藤は、まさにこの「借り物」という根本的な問題に直面しているからこそ生まれたのかもしれません。

しかし、この考えにも矛盾がありました。落語もまた、代々受け継がれてきた古典という「型」を演じるものであり、厳密には「オリジナル」ではありません。なのになぜ、落語は「伝統芸能」として高く評価されるのでしょうか?

その答えは、落語が「型」を守りながらも、噺家自身の「個性」と「解釈」を注ぎ込むことで、その演目を自分のものとして再創造する芸術だからです。これは単なるコピーではなく、「再創造」という創作行為なのです。

江戸屋猫八さんの動物ものまねも、この「再創造」の領域にありました。彼は、単に動物の動きを真似るだけでなく、動物の生態や本質を深く理解し、それをユーモアとして再構築することで、他の追随を許さない孤高の芸を確立しました。彼の芸が「伝統芸能」として代々受け継がれていることは、ものまね芸が持つ「軽さ」のイメージを覆し、芸の持つ本来の重みと価値を示していると言えるでしょう。

 


 

「批評性」と「メタ」が芸をアートへと昇華させる

では、ものまね芸はどのようにして「再創造」を行うのでしょうか。

そこで私は、笑いを構造的に分析する、「批評性」と「メタ」という二つの概念に注目しました。これらは、一流の芸人たちが無意識のうちに駆使している、高度な知的な遊びです。

批評性とは、ある対象を鋭く分析し、その本質や特徴を指摘する行為です。ものまね芸人も、この批評を言葉ではなく、身体表現で示しています。たとえば、コロッケさんが故・森進一さんの顔を極端にデフォルメして笑いを取る時、それは単なるモノマネではなく、森さんの歌い方の「本質」を、コロッケさん自身の感性を通して再解釈した、一種の批評作品と言えます。

メタとは、「高次の」「自己言及的な」といった意味で、ある物事そのものを題材にしたり、その構造を面白がったりする手法です。ものまね芸も、このメタの要素を多分に含んでいます。観客は「今、目の前の芸人は、〇〇さんのふりをしている」という状況を認識しています。この「ふり」と「現実」のズレそのものが、笑いを生み出す構造です。この「笑いを演じる人を演じる」という入れ子構造こそが、ものまね芸が持つメタな側面なのです。

さらに、日本の笑い文化において非常に重要な要素である「ツッコミ」が加わることで、このメタな構造はより明確になります。漫才には必ずツッコミがいて、その存在が芸を成り立たせています。しかし、ものまね芸は、基本的に一人で完結する形態がほとんどです。この「ツッコミの不在」こそが、ものまね芸が持つ「軽さ」の根源にあるのではないかと考えるようになりました。

ツッコミは、ボケが作り出した「ズレ」を指摘し、笑いのポイントを明確にするだけでなく、ボケと同じくらい、時にはボケ以上に笑いを生み出します。それは、芸に奥行きと立体感を与え、単なる「おもしろい話」を「作品」へと昇華させる役割を担います。

ものまね芸もまた、単なる模倣の領域から一歩踏み出し、ツッコミを引き出すための「ズレ」を意図的に作り出すことで、「模倣」から「創作」へと進化することができるのです。この「ツッコミが合って、アートに昇華する」という考えは、論理的な飛躍を含んでいますが、ものまね芸が持つ新たな可能性を示唆する一つの仮説として、私の中で腑に落ちました。

 


 

ものまね芸を巡る「ツール」と「作品」の現実

そして、私が最終的にたどり着いた結論は、あらゆる表現が「ツール」と「作品」という二つの軸で分類できるという考え方です。

  • 「ツール」としての芸:一発芸や多くのものまね芸は、その場の空気を変えたり、人々を笑わせたりするための優れた「道具」です。手軽で汎用性が高く、その価値は計り知れません。

  • 「作品」としての芸:漫才やコント、そして映画は、芸人の思想や哲学が反映された「アート」です。それは、見る者に感動や思考を促し、歴史の中に残る価値を生み出します。

そして、残念ながら、世間や業界の中で、この二つの間には明確なヒエラルキーが存在します。ものまね芸を「軽い」と見なす傾向は、このヒエラルキーの反映と言えるでしょう。「ツール」としての芸は、どれほど優れていても「軽い」と見なされがちで、その作家性や才能は見過ごされやすいという現実があるのです。

原口あきまささんが抱いた葛藤は、この現実に真正面から向き合った結果だったのかもしれません。彼は、単なる「ツール」としてのものまね芸を超え、自身の魂を宿した「作品」を創造しようと、孤軍奮闘していたのではないでしょうか。

 


 

映画の世界にまで通じる、芸の二つの顔

この「作品感」という概念は、お笑いの世界を飛び越え、さらに広い芸術の世界にも通じます。

映画という芸術は、その制作過程に膨大な時間と労力が積み重なることで、「作品感」の究極形と言えるほどの重みを持っています。映画監督や脚本家が、自身の思想や哲学を深く掘り下げ、一つの作品として完成させた時、私たちはその才能に深い敬意を払います。

お笑い芸人が映画を撮った時、観客が「笑う」より「尊敬」してしまうのは、まさにこの「作品感」が理由です。お笑いという「即興の芸」の世界で培われた才能が、映画という「緻密な作品」の世界で花開いた時、私たちはこれまで見えていなかった芸人の「作家性」を明確に感じ取ることができます。

例えば、ビートたけしさんが監督として国際的に評価されたり、松本人志さんが独自の作家性で映画を制作したりする姿は、この現象の典型と言えるでしょう。最近では、劇団ひとりさんやバカリズムさんが、映画監督や脚本家としても高い評価を得ています。彼らが、お笑いの分野で培った「作家性」を、映画というより広範な「作品」を創造する舞台で存分に発揮したことは、お笑い芸人が「笑わせる人」というだけでなく、多様な表現方法を駆使する「総合芸術家」としての可能性を秘めていることを示しています。

結局のところ、芸には、手軽さや即効性を追求する「ツール」としての側面と、作者の思想を表現する「作品」としての側面があります。ものまね芸が持つ「軽さ」は、その多くが「ツール」として機能しているからかもしれません。しかし、原口あきまささんのような一流の芸人たちは、その「ツール」を極めた先に、独自の解釈や批評を加え、笑いを超えた「作品」へと昇華させようと日々、葛藤しているのです。

この葛藤は、ものまね芸が持つ「借り物」というレッテルをはねのけ、自分自身の才能と人間性を証明しようとする、芸人としての魂の叫びなのかもしれません。