
ふとした瞬間に、あの頃の夏が蘇ることってありませんか? 蝉しぐれ、蚊取り線香の香り、そして、どこまでも続くかと思われた長い長い夏休みの日々。平均気温は今より低かったはずなのに、なぜだか体感としては「もっと暑かった」と感じてしまう、あの特別な夏。それは、きっと五感の全てを使って、全身で味わっていた記憶だからかもしれません。
今回は、そんな1980年代の夏休みにタイムスリップして、セピア色に色褪せた記憶の扉を、一緒にゆっくりと開けてみましょう。
ギラギラ太陽と、土ぼこりの冒険の日々
夏休みが始まると、何よりも心が躍ったのは、学校から解放されて朝から晩まで外で遊べることでした。朝は、眠い目をこすりながら団地の広場へ。広場のポールに吊るされた、プラスチック製のポータブルラジオから流れる「新しい朝が来た 希望の朝だ」の歌声に合わせて、体操をするんです。白いランニングシャツが汗で体に貼りつくけど、スタンプカードにポンとハンコを押してもらうと、その日の冒険への期待で、眠気なんて吹き飛んでしまいました。
男の子たちの夏の遊び場は、まさにサバイバルフィールド。近所の築15年ほどの鉄筋コンクリート造りの団地の裏手、わずかに残された雑木林には、子どもたちだけの秘密基地がありました。誰かが近くの建設現場からこっそりもらった、まだペンキの匂いが残るベニヤ板を運び込み、折れた木の枝を組んで作る、自分たちだけの聖域。中には、読み古されてクタクタになった『週刊少年ジャンプ』が何冊か転がっていましたね。『Dr.スランプ』のアラレちゃんが「んちゃ!」と元気な声でジャンプしているイラストがあったり、『キン肉マン』がリングで闘っていたり、『3年奇面組』の変な顔の連中が笑っていたり。拾ったファンタ・オレンジの空き缶や、コカ・コーラの小さな瓶もいくつか転がっていて、それもまた宝物でした。蚊に刺されるのも、木の枝で擦り傷を作るのも、勲章みたいなものでした。
そして、夏休みの定番中の定番が、小川でのザリガニ釣り。団地の裏を流れるコンクリート三面張りの、底には泥が溜まった、決して綺麗とは言えない小川でしたが、そこは私たちにとって宝の海でした。おばあちゃんの裁縫箱から拝借したタコ糸の先にパンの耳をつけて垂らせば、すぐにザリガニが食いついてくるんです。大きなプラスチック製の赤いバケツを用意して、幻の「真っ赤なザリガニ」を狙うワクワク感!手のひらほどもあるデッカイやつが釣れた時の興奮といったら、今でも忘れられません。ザリガニのハサミがバケツの縁をカリカリと音を立てるのも、夏の記憶の一部です。
懐かしの香り、あの頃の暮らしの音と光景
日が傾き始め、空がオレンジ色に染まる頃、泥だらけになって家路を急ぐ足取りは、いつだって軽やかでした。玄関を開けると、プーンと漂ってくるのは、豚の蚊取り線香立てから立ち上る、独特の香り。この匂いを嗅ぐと、「ああ、夏だなぁ」って、じんわり温かい気持ちになったものです。縁側や庭に置かれた蚊取り線香の煙が、夕暮れの空にゆらゆらとたなびく光景もまた、郷愁を誘います。
夕食は、夏の定番、銀色のアルミ皿に盛られたカレーライス。汗をかきながら食べるのが最高に美味しくて、食後には、冷蔵庫でキンキンに冷やした麦茶をやかんでゴクゴク。そして、何と言っても夏の王様、大きなスイカ!縁側に出て、家族みんなで種を庭の父さんが会社から持ってきたサカタのタネのアサガオの根元にピュッと飛ばしながら食べるのが、最高の贅沢でした。
お風呂から上がったら、もらってきた「キリンレモン」とか「サッポロビール」とかのうちわをパタパタさせながら、リビングのちゃぶ台の前に移動された、日立や東芝製のグレーやベージュの首振り扇風機の首がカクカク動く前に陣取って、テレビにかじりつきました。当時はまだ地デジなんてなく、砂嵐混じりの画面。平日の昼下がりには再放送の『サザエさん』が流れていたり、夜になればプロ野球中継に熱中する父さん、そして子供たちが楽しみにしていたのは、土曜日の夜7時、TBS系列の『まんが日本昔ばなし』!「浦島太郎」や「かぐや姫」、「桃太郎」や「こぶとりじいさん」といった、繰り返し放送されるお話の結末を知っていても、毎回食い入るように見つめたものです。
テレビから流れるCMソングも、夏の思い出に彩りを添えました。西城秀樹さんの「ヤングマン (Y.M.C.A.)」が街中やお店で耳にしたり、運動会で流れたりするたびに、自然と体が動いたものです。
小さな恋と、秘めたる研究、それぞれの夏休み

夏休みは、男の子だけじゃなく、女の子にもそれぞれの特別な時間がありました。
おしゃれにちょっと目覚めた女の子なら、お風呂上がりにイチゴや宇宙飛行士スヌーピー、あるいは当時テレビで放送中だった「ウルトラマン80」のイラストが大きく描かれたキャラクターもののパジャマに着替えて、明日は何を着ようかと悩んだり。お気に入りの水色の小花柄ワンピースを着て、髪にはアヤとお揃いで買ったサンリオのキティちゃんのヘアピンを留めて、鏡の前でニコッと笑う練習をしてみたり。
友達と連れ立って、近所の文房具屋さんへ行くのも、小さな冒険でした。たくさんのカラフルなノートやペンが並ぶ中、特にパステルカラーの表紙に小さな花のイラストが描かれた学習帳は、乙女心をくすぐるアイテムでしたね。お店で『明星』や『平凡』といったアイドルの雑誌の付録について友達と話し合ったり、デビューしたばかりの松田聖子さんや田原俊彦さんといった、キラキラ輝くアイドル歌手のポスターを眺めたり。レジでバッタリ、同じクラスの男の子に会って、なんだか胸がドキドキする……なんて、甘酸っぱい思い出も、夏の夕焼け色に染まっていました。
また、外で元気に走り回るだけが夏休みではありませんでした。中には、図鑑片手に黙々と研究に没頭する子も。祖父からもらった真鍮製の虫めがねをポケットに、団地裏の鎮守の森でセミの抜け殻を丁寧に集めたり。一つ一つ形が違う抜け殻を観察して、スケッチブックに描き込んだり。リビングの壁に立てかけられた黄色いパイプと鉄棒でできた『ぶら下がり健康器』が流行っていた時代ですが、体を動かすことよりも、小さな生き物たちの世界を覗き、そこから新しい発見をすることの方が、何倍も面白かったのです。
あの頃の夏休みは、今のように便利なものは少なかったかもしれません。テレビゲームもスマホもなかったけれど、その分、私たちは五感をフルに使って、自然と、友達と、家族と、深く、そして温かく繋がっていました。
夕暮れ時に遠くから聞こえてくる「ヒュ〜、ドーン!」という花火の音。それは、子どもたちにとって、終わらない夢のような時間の象徴でした。あの音を聞くと、今日一日の冒険を思い出し、明日への期待に胸を膨らませたものです。
あなたの心の中には、1980年代のどんな夏休みの思い出が眠っていますか?