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【親子なのに】バブル世代の親とZ世代の子、消費と価値観が『真逆』なのはなぜか?

高額な消費は、その後の関係性への投資(イメージ)

「子は親に似る」とはよく言いますが、現代の日本では、この常識が当てはまらないケースが顕著です。特に、空前の好景気を謳歌したバブル世代の親と、その子どもたちであるZ世代の間には、消費行動から価値観まで、「真逆」と表現されるほどの大きなギャップが存在します。この驚くべき差異は、単なる世代間の好みの違いで片付けられるものではありません。そこには、「人間は社会的な動物である」という根源的な事実が、極めて論理的に作用しているのです。

この記事では、まずバブル時代がいかに「異常な」特殊性を帯びていたかを詳述します。次に、その反動、あるいは変化した社会環境への適応として、Z世代が「より普遍的な普通」へと回帰した背景を探ります。この世代間の鮮烈なコントラストを通して、個人が置かれた社会経済的、技術的な環境が、いかにその人の価値観や行動様式を形成する決定的な要因となるのかを、具体的な事例とともに解き明かしていきましょう。そして最後に、Z世代の次の世代である「α世代」が、彼らに対する「反動」としてどのような特徴を持つ可能性があるかについても考察します。

 


バブル世代の「特殊性」:熱狂と消費に溺れた時代

バブル世代とは、おおよそ1960年代半ばから後半に生まれ、日本が未曽有の経済的繁栄を謳歌した1980年代後半から1990年代初頭に青春時代や社会人としてのキャリアをスタートさせた世代を指します。彼らが経験したのは、経済学の常識をはるかに超える「異常な好景気」でした。この特殊な環境が、彼らの価値観を根本から形成したのです。

バブル世代の親、つまりZ世代の祖父母にあたる世代は、戦中・戦後の極度の欠乏を経験しました。その親たちが「豊かな生活」を夢見て必死に働き、経済復興を成し遂げた姿を見て育ったバブル世代には、「もっと豊かになりたい」「モノを所有したい」という強い欲求が、潜在的に受け継がれていました。そして、彼らが社会に出たとき、まさに日本は空前の好景気に沸き、「頑張れば報われる」「お金があれば何でも手に入る」という楽観的なムードに包まれていました。

当時の日本は、まさに熱狂の渦中にありました。街は活気に満ち溢れ、誰もが「明日も株価は上がる」「土地の値段は絶対に下がらない」と信じて疑いませんでした。銀行は中小企業にも積極的に融資し、株や不動産に投資すれば、たちまち莫大な利益が転がり込む。そんな夢のような話が、当たり前の現実として存在したのです。企業は潤沢な資金で豪華絢爛な接待を繰り広げ、一流ホテルの一室を借り切ったパーティーは日常茶飯事。交際費は青天井、海外出張はファーストクラスが当然といった逸話は枚挙にいとまがありません。社員旅行でハワイやヨーロッパへ赴くのも珍しくありませんでした。

個人の消費行動も、この「異常さ」を如実に反映していました。ブランドショップには長蛇の列ができ、何十万円もするバッグやアクセサリーが飛ぶように売れました。「ぜいたくは敵」どころか、「ぜいたくは文化」とまで言われた時代です。クリスマスには恋人へのプレゼントとして、数十万円の高級時計や宝石が贈られ、贈る側も贈られる側もそれが「当然」という感覚でした。デートではタクシーを何台も連ねて移動したり、バブル崩壊で廃墟と化す高級リゾート地の会員権を誰もが欲しがったりしました。

この時代を象徴するのが、「アッシー君」「メッシー君」といった言葉です。男性が女性を高級レストランでの食事に連れて行き、ブランド品をプレゼントし、高級車で送り迎えをすることが、恋愛の「標準装備」でした。これは、単なる愛情表現に留まらず、高額な消費が、その後の関係性への「投資」として機能するという、ある種の消費と性的な関係が直接的に結びついた文化を生み出しました。

情報環境もまた、この「異常な熱狂」を助長しました。インターネットやSNSが存在しない時代、情報は主にテレビや雑誌といったマスメディアから一方向的に届けられました。雑誌は、煌びやかなライフスタイルやトレンドを提示し、人々は「流行に乗らなければ」「みんなが持っているから自分も欲しい」という画一的かつ刹那的な消費衝動に駆られました。チェルノブイリ原発事故のような深刻な国際問題も報じられはしましたが、日常生活の熱狂が、そうした不安を意識の底に押し込めるほどの「金の力」を持っていたのです。バブル世代が経験したこの異常なまでの熱狂と、刹那的な消費は、戦後の「欠乏」からの極端な反動でもありました。彼らの生き様は、まさに日本が経験した歴史上稀に見る「お祭り騒ぎ」の象徴だったと言えるでしょう。

 


Z世代の「普通」への回帰:現実主義と見栄の新しい形

消費と性の分離、関係性の多様化(イメージ)

一方、バブル世代の親の元に生まれたZ世代(1990年代後半~2010年代前半生まれ)は、全く異なる社会環境の中で育ちました。彼らが親世代と「真逆」に見えるのは、バブルという「異常」を経験せず、むしろ「より普遍的で、現実的な」価値観に回帰した結果なのです。これは、彼らが生きる社会環境が、彼らの価値観を根本から規定していることを示しています。

Z世代は、生まれたときからバブル崩壊後の「失われた30年」の中にいます。彼らが育ったのは、経済成長が停滞し、終身雇用や年功序列といった従来の安定が崩れ去り、リストラや非正規雇用が当たり前になった時代です。親世代が謳歌したような「右肩上がりの経済」を経験しておらず、将来への不確実性を常に抱えています。実際、日本生産性本部が2022年に発表した調査では、若年層の7割以上が将来に対して不安を感じているという結果が出ており、これは彼らの消費行動に強く影響しています。

さらに、彼らはデジタルネイティブであり、スマートフォンとインターネットが生活の一部として埋め込まれていました。この情報環境の劇的な変化が、彼らの価値観と消費行動を形作りました。

  • 「コスパ・タイパ」重視の堅実消費: 将来への経済的不安が大きく、老後の年金問題や終身雇用の崩壊といった現実を肌で感じているため、無駄な出費を避け、コストパフォーマンス(費用対効果)やタイムパフォーマンス(時間対効果)を極めて重視します。彼らにとって、派手な消費は合理的ではなく、貯蓄や自己投資(資格取得、スキルアップ)こそが現実的な戦略なのです。電通の「Z世代調査2024」によれば、Z世代の消費の傾向として「必要最小限(ミニマリズム)」や「堅実・倹約」といった項目が上位に挙げられています。

  • 「体験」と「共有」重視の消費、そして「見栄」の新しい形: モノを所有することよりも、旅行、イベント、ライブなど、記憶に残る「体験」に価値を見出します。そして、その体験をSNSで友人やフォロワーと「共有」することまで含めて、消費の楽しさと捉えます。確かに、この「共有」の側面には、Z世代なりの「見栄」が明確に存在します。しかし、それはバブル世代の「高額なモノを所有し、それを誇示する見栄」とは種類が異なります。Z世代の「見栄」は、「どれだけ充実した体験をしているか」「どれだけ面白い場所に行っているか」「どれだけ洗練されたライフスタイルを送っているか」という、「体験の質」や「自己プロデュース力」に重きを置いたものです。物質的な豊かさよりも、情報の流通や承認を通じて得られるソーシャルな価値を重視する、現代ならではの見栄と言えるでしょう。

  • 消費と性の分離、関係性の多様化: バブル期のような「高額な消費が性的な関係への対価となる」という構図は、Z世代の間ではほぼ見られません。デート費用は割り勘が基本であり、性的な関係は個人の明確な意思と同意に基づく、よりプライベートな選択となっています。恋愛自体に興味がない「非恋愛志向」や、アイドルやキャラクターへの「推し活」など、価値観も多様化しており、無理に恋愛関係を結ぼうとしません。これは、SNSを通じた多様な価値観への接触と、コンプライアンス意識の高まりによるものです。

  • グローバルな社会課題への意識: スマートフォンを通じて、貧困、気候変動、差別、紛争といった世界中で起きる様々な社会課題がリアルタイムで、個人の声や映像とともに届けられます。彼らは企業の倫理観やサステナビリティを重視し、社会貢献にも高い関心を示します。これはZ世代が特別に「崇高」なのではなく、情報が身近にあることで、もはやそれらの問題から目を背けることが難しくなった現代における「普通の反応」と解釈すべきでしょう。特に貧困など、社会構造に起因する課題は、自分たちの将来にも影響を及ぼしうる、より切実な問題として認識されやすいからです。彼らの意識の高さは、バブル期の「目の前の好景気に浮かれる」態度とは対極にあり、情報化社会がもたらす「見えざるものを見える化する力」によって培われた、現代における「普通」の倫理観と言えるでしょう。


「人間は社会的な動物」が示す世代間ギャップの論理

非現実的な楽観主義と消費至上主義(イメージ)

今回の世代間比較を通して明らかになったバブル世代とZ世代の「真逆」とも言える価値観の変遷は、「人間は社会的な動物である」という根源的な真理を如実に示しています。

人間は、単独で存在するのではなく、常にその時代の社会経済的な構造、技術的進歩、そして共有される情報環境の中で思考し、行動します。個人の価値観や消費行動は、遺伝や家庭教育だけで決まるものではなく、彼らが成長する過程で肌で感じた「時代の空気」によって強く規定されるのです。

  • バブル世代は、経済的繁栄という「異常な外部環境」がもたらした「非現実的な楽観主義と消費至上主義」という社会的な集団心理の中で生きました。彼らの行動は、その時代の社会全体が共有する「豊かさ」への強い憧れと、それが可能になったという熱狂の産物でした。彼らの「見栄」は、「高額なモノを所有し、それを見せつける」ことで社会的地位や成功を誇示する、物質主義の象徴でした。

  • 対照的に、Z世代は、バブル崩壊後の「不確実性と閉塞感」という経済的現実、そして「デジタルによる情報爆発とグローバルな課題の可視化」という技術的・社会的な変化という外部環境の中で生きました。彼らの消費行動や価値観は、目の前の現実を冷静に見極め、来るべき未来に向けて賢く、そして持続可能に生きるための、「合理的かつ社会的な適応」の結果なのです。彼らの「見栄」は、「体験の質」や「情報発信による自己プロデュース」という、よりソーシャルで無形な価値にシフトしました。社会問題への関心も、スマートフォンを通じて得られる膨大な情報に対する、ある意味で「避けられない、普通の反応」と言えるでしょう。

したがって、Z世代がバブル世代の親と「真逆」に見えるのは、「子が親に似ない」という単純な遺伝的、あるいは家庭的な問題ではありません。それは、親世代が経験した「特殊な時代」の反動が、子世代が生きる「厳しい現実と情報過多の時代」における最適な生き方、つまり「社会に適応した普通」へと結びついた結果なのです。

 


Z世代と「反動としてのα世代」:次の波はどこへ向かうのか

ソーシャルで無形な価値にシフト(イメージ)

バブル世代からZ世代への価値観の転換を見てきた私たちは、次に生まれてくるα世代(おおよそ2010年代半ば以降生まれ)が、Z世代に対してどのような「反動」を見せるのか、という新たな問いに直面します。

α世代は、Z世代が築いたデジタル社会をさらに深化させた環境で育ちます。AIの普及、VR/AR技術の進化、メタバースの浸透など、現実世界と仮想世界がよりシームレスに融合する中で成長するでしょう。彼らはZ世代の親を見て育ちますが、Z世代の「堅実さ」や「慎重さ」が、α世代にはどのように映るのでしょうか。

もしかすると、α世代はZ世代の現実主義やコスパ重視の傾向に対し、より「仮想世界での自由な自己表現」や「デジタルを通じた大胆な挑戦」を求めるようになるかもしれません。現実世界での経済的制約や社会課題の重さから、より理想的でパーソナライズされた仮想空間に価値を見出す、といった反動が生まれる可能性も考えられます。また、Z世代が体験を「共有」することに重きを置くのに対し、α世代はさらに進んで「体験を創造」することに喜びを見出すかもしれません。

もちろん、これはあくまで予測に過ぎません。しかし、世代間の価値観が常に「振り子」のように揺れ動く性質を持つとすれば、Z世代の次のα世代が、親世代であるZ世代とは異なる新たな「普通」を創り出す可能性は十分に考えられます。過去を振り返り、現在を理解し、未来を予測するためには、こうした「世代と社会の関係性」を深く洞察することが不可欠だと言えるでしょう。