2025年6月14日、91歳で静かにその生涯を閉じた脚本家、ジェームス三木さん。彼のキャリアは、まさに自身がペンを執った「大作」のように、壮大で、深く、そして劇的な展開に満ちていました。今回は、俳優座から歌手、そして遅咲きの脚本家へと至る異色の道のり、彼がいかにして「重厚かつエンタメ」という相反する要素を融合させ、日本のテレビ史に不朽の名作を刻みつけたのか、その秘密と波乱の生涯を深く掘り下げていきます。
異色のキャリアパスが培った多角的な視点:俳優座、歌手、そして遅咲きの脚本家へ
ジェームス三木さんの人生は、一般的なクリエイターの定石をはるかに超えた、特異なキャリアパスを歩んできました。1934年、旧満州(現在の中国東北部)に生を受けた彼は、終戦後、大阪の高校を経て上京。演劇の道を志し、若き日には俳優の登竜門とされる劇団俳優座の養成所で、演技の基礎と人間の心理描写を深く学びました。
しかし、彼の道は俳優としては続きませんでした。1955年にはテイチク新人コンクールに合格するという、まさかの転身を遂げ、約13年間にもわたり歌手としてステージに立ち続けました。マイクを握り、直接大衆と向き合う経験は、物語を「伝える」上での共感性や、人々の心に響く表現力を磨き上げたに違いありません。
そして、その多岐にわたる経験が結実する時が来ます。1967年、『月刊シナリオ』のコンクール入選をきっかけに、日本映画界の巨匠、野村芳太郎監督に師事する幸運に恵まれます。ここでプロの脚本術と、大衆を魅了するエンターテインメントの真髄を叩き込まれた彼は、34歳という、脚本家としては「遅咲き」とも言える年齢で、1969年の映画『夕月』で脚本家デビューを飾ったのです。この異色のキャリアこそが、後に彼の作品に奥行きと多様性をもたらす、かけがえのない財産となっていきます。
「大作で重厚かつエンタメ」の筆致が彩った黄金期:歴史と人間の深淵を描く
ジェームス三木さんの真骨頂は、1980年代半ばから2000年代にかけての、まさに「超一流」と称される活躍期に集約されています。彼の脚本は、一見すると両立が難しい「大作で重厚」なテーマを扱いながら、同時に「エンターテインメント」として抜群に面白いという、他の追随を許さない稀有な特性を持っていました。
その筆頭に挙げられるのが、社会現象を巻き起こし、最高視聴率55.3%を記録したNHK連続テレビ小説『澪つくし』(1985年)です。沢口靖子を国民的女優へと押し上げたこの作品は、当時の朝ドラとしては異例のサスペンス要素と、複雑な人間関係、そして激動の時代を生きる人々の情熱を織り交ぜ、幅広い世代を釘付けにしました。
そして、ジェームス三木の名を不動のものとしたのが、NHK大河ドラマです。特に、伊達政宗を主人公に、渡辺謙を国民的スターに押し上げた『独眼竜政宗』(1987年)は、平均視聴率39.7%、最高視聴率47.8%という驚異的な数字を叩き出し、大河ドラマ歴代1位の金字塔を打ち立てました。この作品で彼は、史実をベースにしながらも、政宗の人間的な葛藤や弱さ、そして野心とカリスマ性を大胆かつ魅力的に描き出し、歴史ファンのみならず、老若男女の心を鷲掴みにしました。
彼の脚本は、単なる歴史の羅列や知識の披露に終わりません。
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「重厚」たる所以: 壮大な歴史のうねりの中に、個人の苦悩や喜び、悲哀、そして普遍的な人間の業を深く掘り下げていきました。『独眼竜政宗』では、権力闘争の過酷さや、家族愛のねじれを克明に描写し、『八代将軍吉宗』(1995年)では、江戸幕府の改革に挑んだ将軍の孤独と信念を描きました。さらに『葵 徳川三代』(2000年)では、特定の主人公を置かず、家康、秀忠、家光という三代将軍とその周囲の重臣たちの群像劇として歴史を多角的に捉え、その重層的な人間ドラマは歴史ドラマの新たな地平を切り開いたと高く評価されました。彼の作品には、常に深い人間洞察と、彼なりの歴史観が息づいていました。
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「エンタメ」たる所以: 一方で、物語の構成は極めて緻密で、視聴者を飽きさせない巧みなプロット展開と、魅力的なキャラクター造形に長けていました。「赤いシリーズ」の第一作でサスペンスを牽引した『赤い迷路』(1974年)では、複雑な出生の秘密と事件を絡ませて視聴者の好奇心を煽り、『西遊記II』(1979年)のようなファンタジーでは、ユーモアと冒険心を刺激する筆致を見せました。彼は、どのジャンルにおいても、ドラマとしての面白さを最大限に引き出すためのエンターテインメント性を決して忘れず、知的好奇心と娯楽性を高いレベルで融合させることに成功しました。この「重厚」と「エンタメ」の絶妙なバランス感覚こそが、彼を「超一流」たらしめた最大の理由であり、多くの視聴者を惹きつけ続けた秘密だったのです。
劇的な私生活がもたらした波乱と、逆境を跳ね返したプロの執念
ジェームス三木さんの人生は、そのキャリア同様に劇的で、波乱に満ちていました。
1983年、まさに脚本家としてのピークを迎えようとしていた時期に、彼は脳腫瘍という重篤な病に侵されます。命の危機に瀕し、一時は死の淵をさまよいましたが、奇跡的に生還。この死と隣り合わせの経験は、彼の人生観、そして創作活動に大きな影響を与えたことでしょう。生への執着と、物語を紡ぐことへの並々ならぬ情熱が、『澪つくし』や『独眼竜政宗』といったその後の傑作を生み出す、強烈な原動力となったことは想像に難くありません。彼は、脳腫瘍からわずか1年後の1984年には仕事に復帰し、その執念を作品として結実させました。
しかし、彼の波乱はこれだけにとどまりません。1992年には、当時の妻が著した暴露本『仮面夫婦』によって、彼の奔放な女性遍歴が世間に明るみに出るという大スキャンダルに見舞われます。特に、彼が関係を持ったとされる170人以上の女性たちの詳細を記録したとされる「春の歩み」というタイトルのノートの存在は、その文学的な響きとは裏腹に、世間に大きな衝撃を与えました。このスキャンダルは連日ワイドショーを賑わせ、彼の世間的なイメージに大きな打撃を与え、一時期、テレビ番組や舞台といった公の場から姿を消すほど、活動が抑制される事態となりました。
当然、この逆境は彼自身の行動が招いたものであり、私生活の責任を問われるのは当然のことです。しかし、驚くべきは、その困難な状況下でもなお、ジェームス三木さんが筆を置くことはなかったという事実です。世間からのバッシングを受けながらも、脚本家としての創作活動は継続されました。スキャンダルから数年後には、大河ドラマ『八代将軍吉宗』(1995年)や、前述の『葵 徳川三代』(2000年)といった大作を次々と生み出し、再び第一線へと返り咲いたのです。これは、彼の才能と、いかなる困難をも乗り越えて作品を生み出そうとするプロとしての揺るぎない執念が、私生活の問題を凌駕するほど強かったことを物語っています。
ジェームス三木の作風が遺したもの:現代の物語作家への影響
ジェームス三木さんが確立した「大作で重厚かつエンタメ」という作風は、現代の物語作家たちにも深く影響を与えています。彼の作品が示してきた、史実の奥にある人間性を深く掘り下げる視点、多層的な群像劇の構成、そしてシリアスなテーマの中にユーモアや人間味を織り交ぜる筆致は、今日のドラマ制作においても重要な指針となっています。
とりわけ、現代の脚本家で、ジェームス三木さんの作風と共通する側面を持つ人物として挙げられるのが、三谷幸喜さんです。三谷さんもまた、大河ドラマ(『新選組!』『真田丸』『鎌倉殿の13人』など)を数多く手がけ、歴史上の人物に新たな解釈を加え、人間臭く魅力的に描くことに長けています。彼の作品にも、特定の主人公だけでなく、多くの登場人物がそれぞれの立場から物語を動かす群像劇が特徴であり、緻密な構成力と笑いと感動を融合させる手腕は、ジェームス三木さんの系譜に連なるものと言えるでしょう。
もちろん、三谷幸喜さんの作品にはよりコメディ色が強く、現代的な軽妙さが際立つという違いはあります。しかし、大衆を魅了するエンタメ性を持ちながら、物語の深層に人間の普遍的な感情や社会の構造を問いかけるという点で、二人の巨匠には共通の精神性を見出すことができます。ジェームス三木さんが切り開いた道は、今日のドラマが「ただ面白いだけではない、深く心に残る物語」を目指す上での、確かな礎となっているのです。
終わりに:物語に捧げた半世紀、その尽きない情熱
ジェームス三木さんは、デビューから晩年まで、実に半世紀にわたって創作活動に情熱を傾けました。2000年代以降は、高齢による体力的な変化もあり、大河ドラマのような年間を通して執筆する大作のペースは穏やかになりましたが、単発のスペシャルドラマ(2008年のテレビ朝日版『天と地と』など)や、舞台の脚本・演出、そして小説執筆など、ご自身のペースで取り組める仕事にシフトしていきました。彼が晩年まで精力的に活動し、筆を置き続けることがなかったのは、まさに物語を紡ぐことこそが彼の人生そのものであった証でしょう。
俳優座で人間の内面を学び、歌手として大衆の心を掴み、そして脚本家として日本のテレビ史を彩ったジェームス三木。脳腫瘍からの生還、そして私生活でのスキャンダルという大きな逆境をも乗り越え、「大作で重厚かつエンタメ」な作品群を世に送り出し続けた彼の生涯は、まさに彼自身の作品のように、波乱に満ち、そして観る者(読む者)の心に深く刻まれるものでした。
彼が残した数々の名作は、これからも長く日本の文化に影響を与え、物語の持つ普遍的な力と、一人の人間の尽きることない創作への情熱を私たちに語り継いでいくことでしょう。