映画『国宝』を観て、「3時間があっという間だった」という驚きを覚えた方も多いのではないでしょうか。一般的に長尺とされる映画で、この「没入感」を実現するのは至難の業です。特に中盤の「モタつき」が意図的なものだと感じられたのですが、この直感が、この作品がいかに計算し尽くされたエンターテイメントであるかを浮き彫りにしました。今回は、単なる「テンポの良さ」を超えた『国宝』が持つ「すごさ」の秘密を、その構成、普遍的なテーマ、原作との関係、製作の裏側、そして公開後の確かな反響から、じっくりと読み解いていきましょう。
テンポの良さを支える、緻密に練り上げられた物語の緩急
『国宝』を観る人が感じる「3時間があっという間」という感覚は、単に展開が速いからだけではありません。そこには、観客の感情を巧みに操る「緩急の妙」が隠されています。映画はまず、主人公・立花喜久雄が任侠の世界から歌舞伎へと飛び込み、天賦の才を開花させ、スターダムを駆け上がっていく過程を、華やかな歌舞伎の舞台描写と共に一気に描きます。この序盤のジェットコースターのような展開が観客を物語に引き込み、期待感を最高潮に高めます。
しかし、物語が進むにつれて、テンポが「モタつく」と感じるような瞬間が訪れます。この“溜め”の時間は、実は作品が意図的に設けた「影」の部分なのです。喜久雄と彼のライバルである大垣俊介(後の花井半弥)が直面する、才能への葛藤、血筋の重圧、名声の裏にある孤独、そして芸の道の厳しさといった内面的な苦悩が、この中盤でじっくりと、しかし深く描かれます。この「谷」があるからこそ、キャラクターの人間性や感情の機微に深みが生まれ、観客が彼らに強く共感し、感情移入することを可能にします。そして、この深い苦悩の時期を乗り越え、再び光が差し込むクライマックスの劇的な展開は、観客に測り知れないカタルシスを与えます。単なる娯楽映画では味わえない、人間の光と影、栄光と挫折、そして再生という、重層的なテーマが、この計算された緩急によって、より深く心に刻まれるのです。
「あり得ない」が物語を牽引するエンタメの強力な担保
『国宝』を観る人が「そんなことは起こらないだろ?」と感じるほど「劇的すぎる」展開が散りばめられているのも、この作品の大きな特徴です。歌舞伎とは全く無縁の任侠の出である少年が、その才能一つで歌舞伎界の頂点を目指すという設定自体、すでに現実離れしています。さらに、彼の人生は華やかな栄光と絶望的な転落を繰り返し、まさにジェットコースターのような波乱万丈ぶりです。
しかし、この「あり得なさ」こそが、エンターテイメントとしての強力な担保となっています。映画は、私たちを日常の現実から切り離し、物語という非日常の異世界へと誘うもの。「あり得ない」出来事が次々と起こることで、観客の感情の振幅は最大化され、より強烈な興奮や感動を味わうことができます。観客の予測を良い意味で裏切ることで、物語には飽きさせない推進力が生まれます。歌舞伎という絢爛でどこか非現実的な世界観が、こうした「劇的な」要素を観客が自然に受け入れるための土壌を作り出し、作品全体のエンターテイメント性を飛躍的に高めているのです。
歌舞伎界の「内」と「外」:普遍的なテーマの深掘り
『国宝』の物語は、「歌舞伎」という特殊で閉鎖的な伝統芸能の世界を舞台にしているからこそ成立する、普遍的なテーマを深く掘り下げています。この世界では、「血筋」が絶対的な価値を持ち、何よりも重んじられる一方で、「芸」の力もまた絶対です。この「血か芸か」という根源的な問いは、歌舞伎界の強固な世襲制の仕組みがあるからこそ、これほどまでに鮮明かつ残酷に描かれるのです。
歌舞伎界は、何百年も続く名跡、血筋、師弟関係といった「うちうちの論理」で成り立っています。役者は、その「うちうち」の評価基準の中で生き、芸を磨き、アイデンティティを築き上げていきます。しかし、ひとたびその「宇宙」から放り出されたり、あるいは外からその世界を客観的に見たりすると、その「うちうちの論理」が、世間の一般的な価値観とはかけ離れていることに気づかされます。
特に象徴的なのが、主人公が経験する「ドサ周り」のシーンです。歌舞伎座という格式高い「場」を離れ、場末の劇場で同じ歌舞伎の芸を披露しても、それは「歌舞伎」とは見なされず、単なる「旅芸人のショー」として扱われてしまう。これは、「家」だ「芸」だと内側でどんなに重んじられても、一歩外に出てしまえばその価値は問われず、残酷な現実が突きつけられるという厳しさを容赦なく描いています。名跡を継ぐことが「籠の鳥」のような宿命を背負うことでもあり、その強固な枠組みから外れた瞬間に直面する「世間の厳しさ」との対比を通して、この作品は人間の業や情熱について深く問いかけているのです。
この「血か芸か」「宿命と選択」「才能と努力、そして葛藤」といったテーマは、歌舞伎という特定の舞台設定を超え、古今東西、様々な物語で繰り返し描かれてきた普遍的な問いです。人類の歴史上、人は常に生まれ持った資質や環境、そして自らの選択と努力の間で揺れ動いてきました。『国宝』がこれらのテーマを深く掘り下げているからこそ、観客は歌舞伎に詳しくなくても、登場人物たちの感情や苦悩に強く共感し、物語に引き込まれるのです。
例えば、芸術や芸能の世界では、天才と凡人の対比、あるいは才能を追求するがゆえの狂気が繰り返し描かれます。映画『アマデウス』では、天賦の才に恵まれたモーツァルトと、凡庸ながら努力を重ねたサリエリの嫉妬と苦悩を通して、芸術の神髄や人間の本質が問いかけられます。また、バレエ映画の傑作『ブラックスワン』では、完璧なバレリーナを目指す女性の精神が崩壊していく過程が描かれ、役と一体化する「憑依」のような状態の裏にある狂気や犠牲が、観る者に強烈な印象を与えます。これはまさに、『国宝』で喜久雄が女形として芸に憑かれる様にも通じるテーマと言えるでしょう。
さらに、スポーツの世界においても、「血統と才能、兄弟間のライバル関係」は、数々のドラマを生み出してきました。その中でも、日本の国民的スポーツである相撲における若乃花・貴乃花兄弟の物語は、『国宝』が描くテーマと多くの点で深く共通しています。彼らもまた、「大関・貴ノ花」を父に持つ相撲界のサラブレッドとして、まさに「血筋」の重みを背負っていました。弟の貴乃花が天賦の才で圧倒的な強さを見せ、若くして大横綱の道を駆け上がった一方で、兄の若乃花は弟ほどの「天才」型ではないと見られながらも、並々ならぬ努力と泥臭い相撲で横綱に上り詰めました。相撲という厳格な伝統の世界で、同じ「家」(二子山部屋)に属しながら最高位を争う兄弟の確執と絆、そして伝統の重圧と個人の生き方の葛藤は、『国宝』の主人公たちが見せるドラマと深く響き合う普遍的な要素なのです。
このように、『国宝』は歌舞伎という絢爛たる舞台で、フィクションならではの極限まで高められた物語として、これらの普遍的なテーマを多角的かつ深く描き出しているからこそ、多くの観客の心を捉える力を持っているのです。
原作小説の深淵と映画化への挑戦
映画『国宝』は、芥川賞作家である吉田修一さんの同名小説が原作です。吉田作品の持つ重厚な人間ドラマと、人間の心の奥底を鋭く描く筆致が、この映画の骨格を成しています。しかし、言葉で表現される小説の世界を、視覚と音で構成される映画へと昇華させることは、並大抵の挑戦ではありませんでした。特に、歌舞伎という絢爛かつ繊細な伝統芸能の世界を、いかにリアリティをもって映像化するかが、この映画の大きな課題であり、同時に魅力となっています。
小説が持つ登場人物の内面描写の深さや、時代背景の重みを忠実に踏まえつつも、映画では歌舞伎の舞台の迫力や、役者の肉体の躍動感を最大限に表現するために、映像ならではのダイナミックな演出が加えられました。原作者である吉田修一さん自身が、この作品のために3年間歌舞伎の黒衣(くろご)として楽屋に入り込み、その経験を血肉にして書き上げた渾身の物語が、李相日監督の手によって見事に映像化されたことで、原作ファンにとっても、活字では想像するしかなかった歌舞伎の美と厳しさが、目の前で繰り広げられる体験として「没入感」を深める要素となっています。
『国宝』のクオリティを支える「超一流」の製作陣と歌舞伎監修の徹底
『国宝』がこれほどの没入感とクオリティを実現できたのは、まさに日本映画界のトップランナーたちが結集した「最強の布陣」が、各分野で妥協なき仕事をしたからです。
まず、監督は『悪人』『怒り』といった重厚な人間ドラマで知られる李相日氏。彼は人間の心の奥底を容赦なく深く掘り下げ、俳優から限界を超える演技を引き出す演出の達人です。彼が描く重厚なテーマ性と、細部への徹底したこだわりが、作品全体の骨格を形成しています。初めて彼の作品に触れた方も、その圧倒的な力量に強く惹きつけられたことでしょう。
脚本は『八日目の蝉』『時をかける少女』など、多岐にわたるジャンルで評価されるベテラン脚本家、奥寺佐渡子氏。彼女の繊細な人間描写と緻密な構成力が、複雑な物語を破綻させることなくまとめ上げ、監督が映像で表現する哲学的な深みを見事に残しています。
音楽は『レッドクリフ』『葵 徳川三代』など数々の大作を手掛ける名作曲家、岩代太郎氏。彼の音楽は、メロディックでありながらも「間」や「空間性」を重視し、アンビエントにも通じる透明感と深みで作品世界を彩ります。言葉にならない感情や歌舞伎の持つ神秘性を音で表現する手腕は、まさに職人芸であり、観客の感情を巧みに揺さぶります。
撮影は『万引き家族』『シン・ゴジラ』などで知られる日本を代表する撮影監督、山田康介氏。彼が手掛ける映像は「具象も抽象も上手い」という言葉がまさに当てはまります。歌舞伎の華やかな舞台や役者の緻密な所作を極めて美しく捉える一方で、登場人物の心の機微や、芸が憑依する瞬間の非現実的な美しさを、光と影、カメラワークで表現し、作品の芸術性を高めています。
そして、この作品のリアリティと「本物」感を支える上で不可欠だったのが、徹底した歌舞伎監修です。吉沢亮さんや横浜流星さんをはじめとする俳優たちは、歌舞伎未経験ながらも、数カ月にもわたる厳しい稽古を重ねました。この稽古を支えたのは、歌舞伎界で活躍する四代目中村鴈治郎さんをはじめとする現役の役者や裏方、専門家たちによるきめ細やかな指導です。彼らは、役者の所作、発声、化粧、鬘、衣装の着付け、そして舞台上での立ち位置や小道具の使い方に至るまで、歌舞伎の伝統的な型と美意識を厳しくも情熱的に伝えました。こうしたプロフェッショナルによる監修があったからこそ、スクリーンに映し出される歌舞伎の世界は、単なる再現に留まらず、観客がその息遣いまで感じられるほどのリアリティと迫力を持つに至ったのです。
圧倒的な「視覚的情報量」:美術、衣装、そしてCGの巧みな融合
『国宝』を観る人が「とんでもなく金がかかってるな」という印象を受けるのは、目に見える豪華さだけでなく、細部に宿るクオリティに裏打ちされています。
美術デザインにおいては、歌舞伎座の舞台装置、楽屋、稽古場など、細部に至るまで徹底した時代考証と監修のもと、驚くべき精緻さで再現されています。舞台裏のリアルな生活感や、当時の街並みまでが作り込まれ、観客を作品世界に深く没入させます。役者が使う小道具一つをとっても、歌舞伎の専門家が監修し、本物の質感と歴史性を追求しています。
衣装デザインもまた、その豪華絢爛さで観客を圧倒します。最高級の絹織物に金糸銀糸の刺繍、手描き絵が施された本物の歌舞伎衣装は、それ自体が芸術品です。その豪華さと、役柄や感情を表す細部のこだわりが、吉沢亮さんや横浜流星さんの歌舞伎役者としての説得力を決定づけます。歌舞伎の鬘(かつら)や化粧(隈取)も、専門の職人による伝統技術で精緻に再現され、役者が完璧に役になりきるための「顔」を作り上げています。
そして、これらをさらに補強するのがCGの巧みな活用です。『国宝』の壮大なスケール感と視覚的豊かさには、CGの存在が不可欠でした。例えば、劇場を埋め尽くす「大勢の観客」は、そのほとんどがCGによって生成されたか、大幅に補強されています。これにより、エキストラのコストや管理の手間を省きつつ、どんなアングルからでも完璧な臨場感を演出できるのです。また、失われた過去の街並みの再現や、抽象的な心象風景の描写にもCGが駆使され、作品に深みと奥行きを与えています。観客に気づかれないほど自然に溶け込んでいるCGだからこそ、その「没入感」は揺るぎないものとなるのです。
作品を支える俳優陣:主役から脇まで「本物」の演技の競演
『国宝』の核心をなすのは、吉沢亮さんと横浜流星さんの、まさに役者としての「覚悟」を感じさせる熱演です。歌舞伎未経験でありながら、数カ月にも及ぶ猛稽古を経て、女形としての所作、発声、そして芸の憑依したかのような迫力を体得した彼らの姿は、世間的な評価を凌駕し、多くの観客の心を掴みました。彼らは単に歌舞伎の型をなぞるだけでなく、役の魂そのものを表現し、観客に芸の神髄とは何かを問いかけます。
しかし、この映画の真骨頂は、主役二人の熱演を支え、歌舞伎界という特殊な世界のリアリティと深みを構築する、脇を固めるベテラン俳優陣の「本物」の演技にあります。彼らは、単なる物語の補完役ではなく、それぞれが濃密な人間ドラマを背負い、作品全体に計り知れない奥行きを与えています。
まず、世界的俳優である渡辺謙さんの存在は、作品の格を一段と高めています。彼の放つ圧倒的なオーラと深みのある演技は、歌舞伎界の大御所としての威厳と、主人公を見守る複雑な感情を見事に表現し、物語の要として機能します。彼の登場は、単なるキャスティング以上の、作品への重厚なメッセージを帯びています。
そして、寺島しのぶさんや、歌舞伎役者である中村鴈治郎さんといった、実際に歌舞伎界と深い縁を持つ俳優陣のキャスティングは、作品のリアリティを飛躍的に高めています。彼らは、歌舞伎という閉鎖的な世界の独特な雰囲気や、そこに生きる人々の息遣いを、自身の経験に基づいた説得力ある演技で表現し、観客を「うちうち」の世界へと誘います。彼らが演じることで、歌舞伎界の裏側にある人間関係の機微や、伝統の重みがよりリアルに感じられるのです。特に、内情を知る彼らが加わることで、作品に「本物」の色が加わり、観客はより深くその世界に没入できるでしょう。
さらに、田中泯さん、嶋田久作さん、そして李相日監督作品の常連である三浦貴大さんといった、唯一無二の個性と確かな実力を持つ俳優たちが脇を固めることで、作品全体の重厚感と人間ドラマの深みが増しています。田中泯さんの身体からにじみ出る表現力は、歌舞伎の「芸の神髄」や「憑依」といった抽象的なテーマに具体的な形を与え、観客に深い問いを投げかけます。彼の存在は、言葉以上に多くのことを物語るでしょう。嶋田久作さんの強烈な個性は、歌舞伎界の厳しさや、時に存在する影の部分を象徴するキャラクターとして、物語に独特のアクセントを加えます。そして、李相日監督作品の常連でもある三浦貴大さんは、派手さや激情を表に出すことは少なくても、役の背景や言葉にならない心の機微を、細やかな表情や視線、そしてたたずまい一つで雄弁に伝えることに真骨頂があります。その控えめながらも確かな存在感は、嵐のような喜久雄の人生の隣で、観客にとっての錨(いかり)のような役割を果たし、作品に人間臭い奥行きとリアリティをもたらします。彼らそれぞれの「本物」の演技が、若手二人の熱量を支え、物語全体の骨格をより強固なものにしていることは間違いありません。
日本映画界の「今」を牽引する東宝の底力
これだけの規模とクオリティの作品が実現できた背景には、東宝という大手映画会社の盤石な製作体制があります。製作費が10億円から20億円規模と推定される『国宝』のような超大作は、安易に作れるものではありません。特に近年、東宝は『名探偵コナン』『劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦』『劇場版SPY×FAMILY CODE: White』といったアニメ事業で驚異的な興行収入を上げており、これが全体の収益を大きく牽引しています。
この潤沢なアニメ収益は、東宝全体の財務基盤を強固にし、結果として『国宝』のような製作費が高騰しがちな実写の「挑戦的な大作」にも、惜しみなく投資できる余裕を生み出しています。製作・配給・興行の一貫体制、そして多角的な事業展開と積極的な海外戦略を持つ東宝は、まさに現在の日本エンターテイメント業界を牽引する「すごい」存在であり、その底力が『国宝』という作品に如実に表れているのです。
公開後の反響と評価:日本映画界の「国宝」となるか
2025年6月6日に公開された映画『国宝』は、その壮大なスケールと圧倒的なクオリティから、公開前から大きな注目を集めていました。そして公開後は、観客から「3時間があっという間だった」「歌舞伎の魅力に引き込まれた」「俳優陣の熱演に感動した」といった絶賛の声が多数寄せられています。
公開からわずか10日間で観客動員数85万人、興行収入11.9億円を突破という驚異的なスタートを切り、週末の映画ランキングでも上位に食い込むなど、興行面でも大成功を収めています。SNSでは、特に吉沢亮さんと横浜流星さんの歌舞伎姿や演技、そして李相日監督の演出手腕に対する称賛の声が飛び交っており、その「没入感」が観客の心に深く刻み込まれていることが伺えます。
また、公開に先駆けて行われたカンヌ映画祭での世界初上映では、6分間にもわたるスタンディングオベーションを受け、海外の観客からも「とても美しくて印象に残る映画」「予想以上」「歌舞伎と日本文化に対してのいい発見になった」といった絶賛の声が寄せられました。
映画評論家からも、原作の深いテーマ性を映画として見事に昇華させた点や、歌舞伎という題材をエンタメとして成立させた手腕が高く評価されています。まさにそのタイトルが示す通り、日本映画界の「国宝」として後世に語り継がれる傑作となる可能性を大いに秘めています。
結び:『国宝』は、まさに「国宝級」の映画体験
その「テンポの良さ」の裏には、観客を魅了し続けるための緻密な計算と、途方もない情熱が詰まっています。まだ未見の方がいれば、ぜひこの極上のエンターテイメント体験を劇場で味わってみてください。そして、一度観た方も、この記事で触れたような様々な視点から、もう一度作品の奥深さを感じてみてはいかがでしょうか。