「入れ歯を作る職人さんが、そんなに厳しい状況なの?」
もしあなたが最近、このようなニュース記事を目にしたなら、きっと驚かれたことでしょう。国民の歯の健康を支える「歯科技工士」という大切な仕事が、今、「時給600円」「異常な低賃金」「なり手不足のピンチ」「過酷な勤務実態」といった厳しい現実に直面していると報じられています。
なぜ、私たちの生活に欠かせない、言わばエッセンシャルワーカーである歯科技工士が、このような状況に追い込まれてしまったのでしょうか。そして、この危機を乗り越える術はあるのでしょうか。
かつては安定した「手に職」の仕事だった現実
30年程度前、具体的には1990年代頃までは、歯科技工士は「手に職をつけられる安定した仕事」として、現在よりも魅力的な職業であると認識されていました。この時期はバブル経済とその余波もあり、日本全体の経済状況が比較的良好でした。歯科医療費も比較的潤沢で、国民の歯に対する意識も高まりつつありました。
デジタル技術が未発達だったため、歯科技工のほとんどの工程が熟練した職人の手作業で行われ、その技術や経験が直接的に評価され、報酬にも反映されやすい環境でした。経験を積んだ技工士は独立開業も現実的な選択肢であり、多くの歯科技工所が個人で開業していました。
しかし、この30年ほどの間に、歯科技工士を取り巻く状況は大きく変化しました。
賃金が安く、過酷な労働環境に陥った3つの構造的問題
なぜ、社会に不可欠な歯科技工士が、これほど厳しい状況に陥ってしまったのでしょうか。主な要因は次の3つの構造的な問題が絡み合っています。
1. 低い報酬体系と過当競争の常態化
日本の公的医療保険制度における歯科の保険点数、特に歯科技工物に対する評価が低い水準に設定されています。これが、歯科医院から歯科技工所に支払われる報酬の基本となり、全体の賃金水準を抑制しています。さらに、全国に約2万件と数の多い歯科技工所間で仕事の獲得競争が激しく、少しでも多くの仕事を得ようと、互いに価格を下げ合う「ダンピング競争」が常態化しています。この競争は、最終的に歯科技工士の賃金を極端に低く押し下げる主要因となっています。
2. 「裏方」ゆえの過酷な労働実態と疲弊
歯科技工士は、患者さんと直接対面することは稀です。その仕事は歯科医師を通じて提供されるため、その高度な専門技術や長時間にわたる緻密な作業が、一般社会や患者から直接認識されにくい傾向があります。 人手不足の中、納期に追われるプレッシャーは大きく、一つ一つ手作業で行う工程が多いため、深夜まで及ぶ長時間労働が常態化しています。一部の技工所では労働基準法が十分に遵守されておらず、残業代の不払いなど、劣悪な労働環境も指摘されており、心身の疲弊が顕著です。
3. 「高齢化」と「なり手不足」の深刻な悪循環
低賃金と過酷な労働環境は、若い世代が歯科技工士を志望しない、あるいはせっかく資格を取得しても早期に離職するという事態を招いています。一方で、現役の歯科技工士は50歳以上が半数以上を占めるなど、高齢化が深刻です。若い世代が育たず、ベテランが引退していくことで、技術継承の危機が叫ばれ、人手不足の悪循環が加速しています。このままでは、将来的に質の高い歯科技工物の安定供給が困難になる可能性が指摘されています。
「作品」にお金を払わない傾向?日本社会の課題と影響
歯科技工士が手掛ける歯科技工物は、患者さん一人ひとりの口腔内に合わせたオーダーメイドの「作品」であり、解剖学的な知識、精密な手技、そして審美的なセンスが融合した高度なクリエイティブワークです。しかし、これが適正に評価されにくい背景には、「日本は『作品』や『職人の技術』に対して、その価値に見合う対価を十分に支払わない傾向がある」という指摘も存在します。
これは、日本の医療制度が「国民皆保険」を重視し、「安価で平等な医療アクセス」を優先する中で、個々の医療サービスや製品(技工物を含む)の「質」や「職人技」に対する金銭的評価が反映されにくい構造になっている側面があると言えます。
この結果、何が起こるのでしょうか。技工士の成り手が減少すれば、患者さんは「質の高い技工物を受けられなくなる」、あるいは「治療期間が長くなる」といった影響を直接受ける可能性が高まります。また、地域によっては歯科医療サービスそのものの提供体制が維持できなくなり、治療の選択肢が狭まる事態も考えられます。
厳しい現状をどう打開する?「政治」と「デジタル」の連携が不可欠
この深刻な状況を打開し、歯科技工士という重要な職業を持続可能にするためには、「政治(政策・制度)」と「デジタル(技術革新)」という二つの柱によるアプローチが不可欠です。
1. 「政治」による根本的な制度改革
厚生労働省は2024年度の診療報酬改定で、歯科技工士の賃上げに資する措置を講じることを明記しました。これは、国として問題が認識された重要な一歩です。しかし、歯科技工物に対する保険点数を抜本的に見直し、その品質や技術、労働に見合った水準まで引き上げることが最も重要です。これにより、技工所に支払われる報酬が増加し、それが技工士の賃金に直接反映される基盤を構築できます。日本歯科技工士会や日本歯科医師会といった業界団体も、この問題の解決に向けて政策提言を続けています。
2. 「デジタル」による生産性向上と新たな価値創造
近年、歯科技工の現場でもデジタル化が急速に進んでいます。この技術革新は、歯科技工士の働き方を大きく変え、厳しい現状を打破する大きな可能性を秘めています。
具体的にデジタル技術が何をもたらすかというと、
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作業時間の劇的な短縮と効率化:
- 以前は、患者さんの口の型を取るために、粘土のような材料を数分間口の中に入れてもらう必要がありました。これを技工所が石膏に置き換え、さらに手作業で歯をワックスで作る…といった、非常に時間と手間のかかる工程でした。
- しかし、今は「口腔内スキャナー」で口の中を数分でスキャンするだけで、精密な3Dデータが手に入ります。このデータはすぐに技工所に送られ、CADソフトウェア上で歯の設計が効率的に行えます。
- 設計されたデータはCAM(ミリングマシン)に送られ、材料を削り出したり、3Dプリンターで精密に造形したりすることで、人が何時間もかけていた作業を機械が短時間で仕上げてくれます。例えば、一つの歯の被せ物を作るのに、手作業では半日かかっていたものが、デジタルなら数時間で完了するケースも少なくありません。
- 以前は、患者さんの口の型を取るために、粘土のような材料を数分間口の中に入れてもらう必要がありました。これを技工所が石膏に置き換え、さらに手作業で歯をワックスで作る…といった、非常に時間と手間のかかる工程でした。
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品質の安定と向上:
- 手作業では、どんなベテランでも微細な誤差が生じたり、経験による品質のばらつきが出たりすることがありました。
- デジタル技術では、コンピューターが制御するため、寸法の誤差が極めて少なく、均一で高精度な技工物を安定して製作できます。患者さんの噛み合わせにぴたりと合う、ストレスの少ない義歯や被せ物を提供しやすくなります。
- 手作業では、どんなベテランでも微細な誤差が生じたり、経験による品質のばらつきが出たりすることがありました。
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人手不足の緩和と労働環境の改善:
- デジタル化による効率化は、限られた人数の技工士でもより多くの仕事をこなせることを意味します。これにより、一人あたりの過重な労働負担を軽減し、長時間労働の是正につながる可能性があります。
- また、石膏を扱う際の粉塵や、金属を加工する際の危険などが減り、より清潔で安全な作業環境を実現できます。
- デジタル化による効率化は、限られた人数の技工士でもより多くの仕事をこなせることを意味します。これにより、一人あたりの過重な労働負担を軽減し、長時間労働の是正につながる可能性があります。
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新たなビジネスモデルとサービスの創出:
- データ共有が容易になることで、歯科医院と技工所の連携がより密になり、スムーズな治療プロセスを構築できます。
- 3Dプリンターの進化は、インプラント手術用の精密なガイドや、オーダーメイドのマウスピース矯正装置など、これまで以上に患者さんに寄り添ったカスタマイズ性の高い医療サービスの提供を可能にしています。
- データ共有が容易になることで、歯科医院と技工所の連携がより密になり、スムーズな治療プロセスを構築できます。
このように、デジタル技術は、歯科技工士がより効率的に、より高精度な仕事をし、その結果として「賃金アップ」の根拠となる生産性向上を実現する、強力なツールとなり得るのです。一部の先進的な技工所では、デジタルワークフローの導入により生産性を高め、労働環境の改善に繋げている事例も報告されています。
まとめ:社会全体で支えるべき「歯の健康」の未来
歯科技工士は、私たちが日々当然のように行っている「噛む」「話す」「笑う」といった基本的な動作を支え、健康な生活の維持に不可欠な役割を担っています。しかし、その根幹を支える職業が、今、存続の危機に瀕しています。
この問題を解決するには、「政治」による制度改革と、「デジタル」による技術活用が車の両輪として機能し、相互に連携することが不可欠です。
私たち国民一人ひとりも、歯科技工士の仕事内容やその価値について理解を深めることが重要です。歯科治療を受ける際、技工物の選択肢やその製作背景に関心を持つことも、間接的にこの重要な職業を支え、未来の「歯の健康」を守る一歩となります。
歯科技工士の労働環境改善と地位向上のためには、さらなる社会的な関心と協力が求められています。