先日、俳優の石黒賢さんが野菜作りを趣味とされている記事を拝見し、「知らないことを知ることがすごく楽しい」という言葉に心を惹かれました。この言葉をきっかけに、「なぜ俳優は土に触れるのか?」という問いを深掘りしていくと、単なる趣味の域を超えた、奥深い理由が見えてきました。それは、俳優という職業の特殊性、そして不確実性の高い現代社会に生きる私たちが求める心の安定へと繋がる、普遍的なテーマでした。
俳優たちの「セカンドステージ」:土から学ぶ人間理解
「俳優で家庭菜園を趣味にする人は多いのか?」この問いに、意外にも多くの著名人の名前が挙がります。近年では、山梨で本格的に農業に取り組む工藤阿須加さんが「阿須加農園」を立ち上げ、米や野菜を栽培・販売するなど、俳優業と並行して農業をライフワークとする姿はメディアでも大きく取り上げられています。野菜ソムリエの資格も持ち、NHK Eテレの「趣味の園芸 やさいの時間」に出演する渡辺裕太さんもその一人。さらに、10年以上前から畑を借りて家庭菜園を本格的に楽しまれている榊原郁恵さんは、JA厚木の農業塾で学んだ経験まで持つといいます。
昭和の時代に目を向ければ、著書『ぼく野菜人』で知られる俳優の大泉滉さんが、その個性的なキャラクターで早くから野菜作りを公言していました。彼の言葉の端々からは、土と向き合うことの哲学が滲み出ていたものです。
彼らが多忙な俳優業の傍ら、なぜこれほどまでに土に触れることに魅せられるのでしょうか。その背景には、「人間理解」への飽くなき探求心があると考えられます。俳優は、多様な役柄を通して人間の感情や社会の複雑さを表現するプロフェッショナルです。農業は、種を蒔き、育て、収穫するという生命のサイクル、そして水や太陽、土といった自然の摂理と直接向き合う営みです。この根源的な体験は、人間が自然の一部であることを肌で感じさせ、生きる上で不可欠な食への感謝、そして人間本来の感情や欲求といった、よりプリミティブな部分への洞察を深めます。土からの学びは、演じる役柄の感情や背景に、圧倒的なリアリティと深みをもたらす、かけがえのない経験となるのです。
土いじりがもたらす「心の癒し」と「気づき」:ストレス社会の処方箋
俳優という職業は、華やかさの裏に大きな精神的負担を抱えています。次の仕事が決まるか分からない不安定な収入、常に世間や批評家の評価に晒されるプレッシャー、そして役柄と深く向き合う中で生じる心の疲弊。多忙な時期と「空白期間」が混在する不規則な生活リズムも、心身に大きな影響を与えます。
こうしたストレスフルな状況において、家庭菜園や農業は、俳優たちの「心の安全弁」として機能している側面があります。これは単なる時間つぶしを超え、彼らが「心を壊さないための工夫」 として意識的、あるいは無意識的に選択している活動と言えるでしょう。
特に重要なのが、農業がもたらす次の二つの心理的メリットです。
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確実な成長と達成感 演技の世界では、どんなに努力してもすぐに結果が出るとは限らず、他者の評価に大きく左右されます。しかし、農業では、水を与え、手入れをすれば、目に見える形で確実に作物が育ち、収穫という具体的で形のある達成感が得られます。例えば、丹精込めて育てたトマトが赤く実った時の喜びや、大きく育った大根を土から引き抜く時の手応えは、不安定な精神状態を安定させ、自己肯定感を高める強力な作用があります。プロ野球を引退後、第2の人生としてイチゴ農家へ転身した元プロ野球選手の三ツ間卓也さんは、この「育てる喜び」に生きがいを見出していると語ります。
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コントロールできる領域の確保 俳優の仕事は、オーディションの合否や撮影スケジュール、作品の評価など、自分ではコントロールできない要素が多いものです。こうした非制御的な環境は、無力感やストレスを生みやすいものです。しかし、自分の畑であれば、何をどう育てるか、いつ水やりをするかなど、多くのことを自分の意思と裁量でコントロールできます。この「自分で決める」感覚は、主体性を取り戻し、自信を育む上で非常に重要ですし、日々の小さな成功体験の積み重ねは、心の安定に繋がります。
五感で感じる自然との一体感と、土が持つ科学的な癒し
土いじりには、これら以外にも、心を深く癒し、新たな気づきを与える力が宿っています。
- 五感への刺激とリセット: スマートフォンやパソコンに囲まれた生活では、視覚と聴覚に偏りがちですが、土に触れる感触、植物の青々とした香り、風に揺れる葉の音、太陽の温かさ、そして収穫したての野菜の味など、五感をフルに活用します。この豊かな刺激は、デジタル漬けの現代生活で鈍りがちな感性を研ぎ澄まし、心身をリフレッシュさせる効果があります。
- 「待つ」ことの尊さ: 作物が育つには、適切な時期と忍耐が必要です。焦っても早く育つわけではありません。この「待つ」という行為は、効率性や即効性が求められる現代社会において忘れられがちな、時間の流れや生命の尊さを再認識させてくれます。それは、焦燥感に駆られがちな心を落ち着かせ、穏やかな心の状態を取り戻すための大切な時間となります。
- 不完全さを受け入れる心と困難の克服: 自然は常に予測不能です。病害虫が発生したり、天候不順で収穫量が減ったりすることもあります。思い通りにならない自然の中で、完璧を求めることの難しさを学び、不完全さを受け入れることで、人間もまた、自分自身の不完全さや逆境と向き合う術を学びます。俳優の山田孝之さんが、自給自足への憧れから農業に取り組む中で、「人任せより自分で始めた方が楽しいし確実でしょ?」と語るように、困難を乗り越える粘り強さや問題解決能力も培われます。
- 土壌菌と心の健康の結びつき: 近年の研究では、土壌中に存在する特定の微生物(例:Mycobacterium vaccae)が、人間の脳に働きかけ、神経伝達物質であるセロトニンの分泌を促進する可能性が指摘されています。セロトニンは「幸せホルモン」とも呼ばれ、気分を安定させ、不安を抑制する作用があることが知られています。つまり、土に触れ、この微生物を吸い込むことで、科学的にもストレス軽減や精神安定の効果が期待できるのです。これは、土いじりがもたらす癒しが単なる感覚的なものではなく、生物学的な根拠に基づいている可能性を示唆しています。
- 生命の力強さからのインスピレーション: 小さな種から芽が出て、どんな逆境にもめげずに太陽に向かって伸びていく植物の生命力は、私たちに大きなインスピレーションを与えます。この力強い姿に触れることで、俳優は役柄に込められた生命力や、人間が持つ回復力をより深く理解し、表現に活かすことができるのです。
表現を超えて:パブリックイメージと新たな価値創造
俳優が家庭菜園や農業に取り組むことは、個人的な側面だけに留まらず、社会的な広がりを見せています。
彼らの活動は、社会的なメッセージの発信にも繋がります。自身の知名度と影響力を活用し、食育、環境問題、地域活性化といった社会課題に人々の目を向けさせるきっかけを作り出します。例えば、女優の柴咲コウさんは、自ら会社を設立し、オーガニック製品の販売や有機野菜作りにも積極的に関わるなど、持続可能な社会への明確な思想を体現しています。また、人気グループSUPER EIGHTの村上信五さんは、農業ビジネスに参入し、ぶどうプロジェクトをスタートさせるなど、農業×エンタメで地方創生や農業の課題解決を目指す新たな動きも見られます。
農業に親しむ姿は、彼らのパブリックイメージにも良い影響を与えます。地に足のついた、健康的で誠実な印象は、ファン層の拡大や好感度向上に繋がるでしょう。自身のSNSやYouTubeチャンネルで畑での日常を発信することで、ファンとのエンゲージメントを深め、人間味あふれる「リアルな」側面を見せる効果もあります。タレントの山口もえさんや杉浦太陽さん・辻希美さん夫妻が、ご自身のブログやSNSで家庭菜園の様子を頻繁に公開し、多くの共感を得ているのも、この良い例です。
土が教えてくれる、人生の豊かさ
俳優が土に触れる理由は、単なる趣味や気分転換ではありません。「人間理解」を深める表現者としての探求心、不安定な環境で心を保ち、再生させるための工夫、そして社会へポジティブな影響を与える役割。これらが複雑に絡み合って、彼らを土へと向かわせるのです。
そして、この「確実な成長と達成感」や「コントロールできる領域の確保」、さらには五感を通して得られる癒しや気づきといった心の拠り所は、俳優に限らず、不確実な現代社会に生きる私たち共通のニーズでもあります。デジタル化された日常の中で、土に触れ、生命を育むという根源的な営みに、心の豊かさや安定を求める人々は少なくありません。
あなたにとって、日々の暮らしの中で「土いじり」のように、心を耕し、新たな気づきをもたらしてくれる場所はありますか?