1980年代後半、日本中を熱狂の渦に巻き込んだ7人組のアイドルグループ、光GENJI。ローラースケートを履いて歌い踊る斬新なパフォーマンスは、まさに社会現象となり、彼らの姿はテレビの画面から消えることはありませんでした。しかし、その輝かしい「国民的アイドル」の時代は、実は私たちがいだく印象よりもはるかに短く、そしてその裏には様々なドラマや葛藤、そして時代の大きなうねりがありました。
今回は、彼らの栄光の陰に隠された真実、メンバー間の確執、そしてバブル経済という時代の背景まで、深く掘り下げていきます。
デビューからわずか1年で頂点へ:光GENJIの「凝縮された」ピーク
光GENJIがデビューしたのは1987年8月19日。その勢いは凄まじく、翌年の1988年には『パラダイス銀河』で日本レコード大賞を受賞し、まさに人気・売上ともに最高潮を迎えました。テレビをつければ光GENJI、街を歩けば光GENJIの曲が流れ、彼らが発する一挙手一投足が世間の注目を集めるような、圧倒的な存在でした。
しかし、この「国民的アイドル」としての絶頂期は、私たちの記憶よりも遥かに短かったのです。多くの人が想像する「ピーク」は、実はデビューからわずか3年程度。1990年頃には、すでにブームの沈静化の兆しが見え始めていたと言われています。
「オレたちのファン、100万人いたんじゃなかったっけ!」:鈴木おさむ氏が目撃した「衝撃の光景」
この人気の陰りを象徴するエピソードを、放送作家の鈴木おさむ氏が明かしています。彼が20歳くらいの頃、初めて光GENJIの仕事として、CD購入者向けのメンバー全員との握手会イベントに参加した際のことです。
事前にスタッフからは「今日は何回、回しになるか分からないから、夜までスケジュール空けとけと。朝から。もうすごい数になるから、と言われたんですよ」と、膨大な数のファンが集まることを示唆されていました。しかし、期待とは裏腹に、実際にはそれほどファンは集まらず、イベントは昼過ぎには終了。
鈴木氏がスタッフと共にそのイベント終了をメンバーに伝えに行った際、諸星和己さんが見せた光景が、彼の胸に深く突き刺さりました。諸星さんは、まばらになった握手列の窓の外を見て、「カーくん(諸星のこと)が、並んでる窓の行列を見て、大きい声で『オレたちのファン、100万人いたんじゃなかったっけ!』」と叫んだというのです。
鈴木氏は、その瞬間を「すごかったよ。(諸星が)あれを言って、メンバーが下向いてる瞬間を覚えてる」と振り返っています。これは、人気が確実に落ちていることを諸星さん自身が初めて、そして強烈に感じた瞬間だったと鈴木氏は見ています。
内なる葛藤と不仲説:「ちょっと陰湿なけんかでした」
外からのプレッシャーだけでなく、グループ内部にも葛藤がありました。元メンバーの赤坂晃さんは、後のインタビューで、光GENJI時代の「不仲説」について率直に語っています。
「仲は悪かったんじゃないですか」と赤坂さんは認めつつも、「仲が悪いというか、リスペクトはしているんですけど、どこか子どもな部分があって、素直に会話ができないというか。皆、“俺が俺が”だったんで。意見のぶつかり合いが結構ありました」と詳細を説明しました。
さらに、具体的な喧嘩の様子を「ちょっと陰湿なけんかでした。しばらく口をきいてくれなかったりとか。今だから話せる。かわいいもんですけどね」と語っています。トップアイドルという重圧の中で、若者同士の意見のぶつかり合いやプライドが、時に「陰湿」な形として現れていたことが伺えます。
特に、諸星和己さんと大沢樹生さんの間には、長年にわたる深い確執があったことが、両者によって公に認められています。解散後、二人は約20年間もの間、全く連絡を取っていなかったほど。諸星さんは、大沢さんを嫌う理由について「(大沢の)顔がタイプじゃない。顔つきが嫌い」と、時に冗談めかして語っていましたが、これは二人の性格やキャラクターが大きく異なっていたことを示唆しています。
バブル経済の申し子:時代とともに駆け抜けた光GENJI
光GENJIのデビューから人気が陰りを見せるまでの時期は、まさに日本のバブル経済と完全に同期していました。
彼らが社会現象となった1988年頃は、バブル経済が最も熱を帯びていた時期です。ヒット曲『太陽がいっぱい』も、その時代を象徴するかのようでした。当時、企業は潤沢な広告費をテレビに投入し、番組制作費も高水準でした。豪華なセットや大規模なプロモーションは、バブル期の消費熱と相まって、光GENJIの輝きを一層増幅させました。人々は「お金を使うこと」に何の躊躇もなく、光GENJIのCDやグッズ、コンサートチケットは飛ぶように売れました。
しかし、バブル経済が崩壊へと向かい始めた1990年代初頭には、テレビ業界にも変化が訪れます。企業の広告出稿が減少すると、高コストな歌番組は制作費削減の対象となり、徐々にその数を減らしていきました。
歌番組の減少と視聴者の嗜好の変化
歌番組が減少した背景には、バブル崩壊による制作費削減だけでなく、視聴者の嗜好の変化と番組の多様化も大きく関係しています。
- バラエティ番組の台頭: 1990年代には『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』や『うたばん』といった、歌よりもアーティストのトークやキャラクターを前面に出すバラエティ要素の強い音楽番組が人気を博しました。純粋に歌を聴かせる番組ではなく、よりエンターテインメント性を重視する傾向が強まりました。
- ドラマの黄金期: また、この時期は「トレンディドラマ」が全盛期を迎え、テレビのゴールデンタイムはドラマやバラエティ番組に多く割かれるようになりました。
- バンドブームの到来: 光GENJIの輝きと同時期に、X JAPAN、B'z、Mr.Childrenといったバンドが台頭し、音楽シーンの主役が多様化していきました。これにより、従来のアイドル歌謡だけでなく、ロックやJ-POPへとリスナーの関心が広がり、市場が分散したことも一因です。
これらの要因が複合的に絡み合い、光GENJIが最も輝ける場であった「歌番組」の減少は、彼らの活動にも間接的に影響を与えたと考えられます。
解散、そしてそれぞれの「光と影」:メンバーの現在地
1994年の大沢樹生さんと佐藤寛之さんの脱退を経て、「光GENJI SUPER 5」として活動を続けた後、1995年9月3日、光GENJIは惜しまれつつも解散しました。しかし、彼らの人生のドラマはそこで終わったわけではありませんでした。それぞれのメンバーが歩んだ道は、まさに「光と影」を伴うものでした。
- 内海光司(光): ジャニーズ事務所(現:SMILE-UP.)に残り、舞台を中心に活動を続けています。安定したキャリアを築き、後輩の育成にも関わるなど、ジャニーズの「長男」的存在としての役割を果たしています。
- 大沢樹生(光): ジャニーズ事務所を退所後、俳優や歌手として活動。自身の監督作も発表するなど多岐にわたる活躍を見せます。しかし、プライベートでは、前妻との間に生まれた長男との間で起きたDNA鑑定問題が大きく報じられ、「父子確率0%」という衝撃的な結果が世間を騒がせました。これは、彼の人生における最大の試練の一つだったでしょう。
- 諸星和己(GENJI): ジャニーズ事務所を退所後、ソロアーティストとして活動。ニューヨークに拠点を置くなど、独自のスタイルを貫きました。メディアでは「暴走キャラ」として取り上げられることもあり、その自由奔放な言動は常に注目を集めました。近年では、高額なブレスレット販売が報じられるなど、そのビジネスについても話題になることがあります。
- 佐藤寛之(GENJI): ジャニーズ事務所を退所後、音楽活動を続けています。一時は芸能界から距離を置いた時期もありましたが、近年はライブ活動も積極的に行い、ファンとの交流を深めています。
- 山本淳一(GENJI): 解散後、最もスキャンダルに見舞われたメンバーの一人です。かつては「妻をソープ送り」報道など、金銭トラブルや女性問題が週刊誌で度々報じられ、「堕ちたアイドル」として世間の注目を集めました。私生活の波乱が大きくクローズアップされ、苦しい時期を過ごしました。
- 赤坂晃(GENJI): 薬物問題で2度逮捕され、ジャニーズ事務所を懲戒解雇となりました。服役後、沖縄・宮古島に移住し居酒屋を経営していることが報じられ、更生への道を歩んでいます。近年は、かつてのメンバーとの再会も報じられ、再び音楽活動を行う機会も増えています。
- 佐藤アツヒロ(GENJI): ジャニーズ事務所に残り、舞台を中心に活動を続けています。近年は、光GENJIの元メンバーを訪ねるドキュメンタリー番組『7 S.T.A.R.S. ~7つの答え~ 佐藤アツヒロが繋ぐ光GENJIの現在(いま)』に出演し、他のメンバーとの絆を再確認する役割も果たしました。
光GENJIが教えてくれるもの
光GENJIは、約8年間の活動に終止符を打ち、1995年に解散しました。その短くも鮮烈なピーク、そしてその後のメンバーそれぞれの人生は、私たちに多くのことを教えてくれます。国民的アイドルという重圧、時代の変化、そして人間関係の複雑さ…。
彼らは、日本のバブル経済という、ある意味「狂乱の時代」の象徴であり、その盛衰とともに駆け抜けていきました。光GENJIの物語は、単なるアイドルの歴史ではなく、日本の社会とエンターテインメント業界の移り変わりを映し出す鏡なのかもしれません。
彼らの音楽が今も多くの人々の心に残っているのは、その輝きが時代とともに確かに存在し、私たちの記憶に深く刻まれているからでしょう。そして、それぞれの道を歩む彼らの姿は、アイドルとしての「光」だけでなく、人間としての「影」をも引き受けながら、人生を懸命に生きる姿を私たちに示しています。