漫画家・東村アキコ氏が、自身が原作を手がけた永野芽郁主演映画に関する報道を巡り、「週刊文春」に対して「二重人格の人と付き合っているみたい」と率直な気持ちを吐露したことが話題となりました。
この発言は、著名人と週刊誌、さらにはその背後にある大手出版社グループとの間の、一見矛盾をはらんだような関係性を浮き彫りにしています。果たして、メディアは本当に「二重人格」なのでしょうか?
「仕事仲間」が「監視者」に? 著名人が抱く違和感
東村アキコ氏の「二重人格」という言葉は、週刊文春が、一方で氏の作品を特集するなど「仕事仲間」のような協力関係を築きながら、他方で、氏の作品に出演する俳優のスキャンダルを追及するという二面性を持つことへの戸惑いを表現しています。
この複雑な関係性は、東村氏と文藝春秋だけの話ではありません。お笑い芸人の太田光氏も、新潮社が発行する「週刊新潮」による自身の「裏口入学」疑惑報道を巡り、同社を提訴。最終的に新潮社側に賠償を命じる判決が確定しています。
しかし、注目すべきは、太田光氏は新潮社から複数の書籍を出版しており、東村アキコ氏もまた文藝春秋から書籍を出版しているという事実です。これは、著名人が、自身の作品を世に送り出す「出版社」と、時に自身のプライベートや疑惑を報じる「週刊誌」が、実は同じ企業グループに属しているという、特異な状況を示しています。
「これはこれ、それはそれ」は割り切れるのか?
この状況に対し、「出版社と週刊誌は別部署であり、それぞれの役割を果たすものだ」という見方もあります。確かに、企業内部では編集の独立性が保たれていると説明されることが多いでしょう。
しかし、当事者である著名人からすれば、自身と信頼関係を築き、作品を共にする「パートナー」でありながら、同時に厳しい追及の対象となる「監視者」が、同じ「社名」の下に存在するという感覚は、決して割り切れるものではありません。感情的な側面はもちろんのこと、自身のキャリアやイメージへの影響を考慮すれば、割り切って考えることの難しさは容易に想像できます。
「監視者」としてのメディアの役割とその光と影
「週刊文春」や「週刊新潮」のような週刊誌は、しばしば「イエロー・ジャーナリズム」的な傾向を持つと指摘されます。センセーショナルな見出し、ゴシップやスキャンダルへの集中、感情に訴えかける表現などがその特徴として挙げられます。
しかし、同時に両誌は、政治家や官僚の不正、大企業の不祥事、権力者による隠蔽などを、独自の調査報道によって暴き出す「ジャーナリズム・監視者」としての重要な役割も果たしています。これらのスクープは、他の主要メディアが報じにくい情報を世に出し、社会の不正を正すきっかけとなることも少なくありません。
つまり、両誌は「イエロー・ジャーナリズム的な傾向を持つが、単なるゴシップ誌ではない」という、複雑なバランスの上に成り立っていると言えるでしょう。現代の出版業界において、特に週刊誌というジャンルでは、このバランスが、読者の好奇心を引きつけつつ社会的影響力を維持するための有効な戦略となっている側面があります。
構造的ジレンマ:避けられない「二重性」
では、このような「出版社と週刊誌が同一グループに存在することによる二重性」は止められないのでしょうか?
現在の日本の主要なメディアグループの多くが、書籍出版と週刊誌発行を併せ持つ多角化経営を行っていることを考えると、この構造自体を「止める」ことは極めて困難です。これは、企業としての経営戦略であり、週刊誌の監視機能が社会に必要とされるという側面もあるためです。
そのため、著名人がこのような状況に直面した際、既存の出版契約を一方的に「版権を引き上げる」ことは、契約違反や法的な問題に繋がり、現実的な選択肢ではありません。多くの場合、感情的な不満を表明しつつも、契約上の義務は果たし、「今後の取引における態度」を見直したり、「沈黙または静観」を選ぶことが現実的な対応となります。また、太田光氏のように、報道内容が誤っている場合は法廷で争うという選択肢もあります。
メディアの「二重人格」という言葉は、大衆の好奇心とジャーナリズムの使命、そして個人との関係性という、現代社会におけるメディアの根深いジレンマを象徴していると言えるでしょう。この複雑な関係性は、今後もメディアと著名人の間で、議論の対象となり続けることでしょう。