「〇〇党」と聞くと、私たちはすぐに政治的な集まりを想像します。しかし今から半世紀以上前、日本の港町・横浜に、全く異なる、それでいて強烈な輝きを放った二つの「党」が存在したのをご存じでしょうか。
一つは「ナポレオン党」、そしてもう一つは「クレオパトラ党」です。
時代の波が生んだユニークなユースカルチャーの象徴、熱気あふれる当時の横浜の空気の中で交差した二つのグループの物語に迫ります。
単なる港町ではなかった。1960年代・横浜の特別な空気感
「クレオパトラ党」や「ナポレオン党」の物語を語る上で、欠かせないのが当時の横浜の特別な雰囲気です。1960年代後半、日本が高度経済成長を遂げる一方で、横浜は他の都市とは一線を画す独特の国際色と活気に満ちていました。
その最大の要因は、アメリカ軍の駐留です。広大な米軍施設、特に本牧エリア周辺は「リトルアメリカ」とも呼ばれ、日本の他の地域よりもはるかに早く、そして深くアメリカの文化が流入していました。街を歩けば、最新の洋楽が流れ、日本ではまだ珍しい外車が走り、すれ違う人々の中に外国人の姿も多く見られ、英語が耳に入ってくるのも日常的な光景でした。
本牧のクラブ「ゴールデンカップ」のような場所では、本場仕込みのR&Bやロックが演奏され、日本の若者だけでなく、米兵たちも集まって熱狂していました。元町には洗練されたブティックやカフェが並び、中華街はエキゾチックな魅力で人々を引きつけました。山下公園からマリンタワー周辺は、若者たちの待ち合わせ場所であり、外車が集まるスポットでもありました。
こうした環境は、日本の保守的な価値観とは異なる、自由で刺激的な空気感を生み出しました。若者たちは、最新のファッションや音楽、車といった西海岸的なライフスタイルに憧れ、それを自分たちのものとして取り入れていきました。それは、良くも悪くも、当時の日本社会の規範からはみ出した、ある種の「アンダーグラウンド」な魅力を持っていたのです。
横浜が生んだ時代のアイコンたち:ナポレオン党と、華麗なる「クレオパトラ党」
そんな特別な港町・横浜で生まれたのが、「ナポレオン党」と「クレオパトラ党」でした。
「ナポレオン党」は、前述のような横浜の空気に魅せられた若い男性たち、特に外車やスピードに熱中するカーマニアのグループです。彼らは山下町などを拠点に、自慢の外車を乗り回し、当時の流行であったダンスパーティーを頻繁に開催していました。リーダーとされる小金丸峰夫氏や、彼らの周りに集ったゴールデンカップスのメンバーやボクサーのカシアス内藤氏など、その顔ぶれもまた、当時の横浜の持つ多角的な魅力を物語っています。彼らは、最先端のカルチャーを取り入れつつも、どこか男らしい硬派な一面も持ち合わせた存在でした。
そして、そのナポレオン党と親交があり、横浜の街にひときわの華やかさを添えたのが「クレオパトラ党」です。彼女たちは、ナポレオン党の存在を意識し、対をなすように自らを「クレオパトラ」と名乗りました。「クレオパトラ」という名は、単にナポレオンの対義であるだけでなく、美しさ、強さ、そして人を惹きつける魅力を兼ね備えた存在でありたいという、彼女たちの自己イメージや、周囲から見たイメージを象徴していたのかもしれません。
クレオパトラ党のメンバーの最大の関心は、当時の最先端ファッションと音楽、ダンスにありました。米軍基地を通して入ってくる海外の情報をいち早くキャッチし、まだ日本の一般的な街では見かけることの少なかったミニスカートや、ひざ下まである白のゴーゴーブーツといった、まさに時代の先端を行くスタイルを颯爽と着こなしました。彼女たちは、ただ流行を追うだけでなく、それを自分たちのものとして昇華させ、周囲の憧れの的となっていました。
活動の中心は、元町、本牧、中華街といった洗練されたエリアのカフェやレストラン、そして特にディスコです。元町にあった「ロマン」や、地下に人気ディスコ「アストロ」があった「シェル・ブルー」のような場所では、最新のソウルやロックに合わせて踊り明かしました。彼女たちがフロアに登場すると、その華やかさと存在感で場の空気が変わったと言われています。時には、他のグループとの間に緊張感が走るような場面(「バチンバチンな雰囲気」と表現されることも)もあったようですが、それは彼女たちがそれほどまでに強いオーラを放っていたことの裏返しでしょう。
また、クレオパトラ党には、後に国際的なトップモデルとなる山口小夜子さんや、タレントとして活躍するキャシー中島さん、俳優・浅野忠信さんのお母様である浅野順子さんなど、各界で名を馳せることになる類まれな美貌と個性を持った女性たちが多くいました。彼女たちの多くが後にモデルや表現者の道に進んだことからも、クレオパトラ党が単なる仲良しグループではなく、美意識や自己表現への意識が高い女性たちが集まる、一種の才能のハブのような場所だったことがうかがえます。当時の社会では、音楽やダンスを楽しむこと、そして露出度の高いファッションをすることに対して偏見や「不良」というレッテル貼りが存在しましたが、彼女たちはそうした周囲の目をものともせず、自分たちの「好き」を追求し、新しい価値観を体現していました。
伝説となった二つの「党」が描いた青春
ナポレオン党とクレオパトラ党は、それぞれ男性と女性、車とファッションという異なる興味を持ちながらも、当時の横浜という熱気あふれる舞台で交差しました。米軍基地から流れ込むアメリカ文化、港町の開放的な雰囲気、そして時代の変化への若者たちの渇望が混じり合い、彼ら独自のユースカルチャーを形成していったのです。
公式な記録が少ないため、その活動の全貌やメンバーの全てが明らかになっているわけではありません。しかし、当時の横浜を知る人々にとって、この二つの「党」は、あの時代のあの場所で確かに輝いていた青春の象徴です。異文化が混じり合う港町ならではの自由さとエネルギーの中で、自分たちのスタイルを追求した彼らの姿は、単なるノスタルジーとして片付けられない、今なお色褪せない魅力を持っています。
ナポレオン党の駆ける外車の轟音と、クレオパトラ党がディスコで踊り、時代を彩るファッションをまとった姿――時代の熱気と港町の風を纏った彼らの青春は、「伝説」として今も語り継がれています。