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バンダイはいかにIP王国になったか?ガンダム、ドラゴンボールを生んだ経営者の軌跡

バンダイナムコグループの巨大IP(イメージ)

現代のエンターテインメント産業において、「IP(知的財産)」は、もはや単なるコンテンツの種やキャラクターの商品化権といったレベルを超越した、ビジネスそのものを駆動させる最重要戦略資産です。一つの強力なIPが、ゲーム、映像、音楽、出版、グッズ、イベント、テーマパーク、さらにはデジタル空間やメタバースまでをも横断する巨大なビジネスエコシステムを構築し、国境や世代を超えて莫大な利益を生み出す時代です。

例えば、ディズニーが展開する「マーベル・シネマティック・ユニバース」は、単なる映画シリーズではなく、数十本の作品が複雑に絡み合う壮大な物語世界を構築し、Disney+でのドラマシリーズ、テーマパークのアトラクション、膨大な量のグッズ展開で、年間を通じてファンを熱狂させ続けています。ゲーム業界を見ても、任天堂の「スーパーマリオ」や「ポケモン」は、最新ゲームソフトのヒットはもちろんのこと、アニメ化、カードゲームの国際大会、そして「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」でのエリア展開といった形で、ゲームの枠を超えた体験を提供し、世界中の人々にとって普遍的な文化アイコンとなっています。また、近年の日本のIPでは、「鬼滅の刃」や「呪術廻戦」といった人気漫画がアニメ化されるやいなや、劇場版アニメが歴史的な興行収入を記録したり、全世界での同時ストリーミング配信が爆発的な人気を博したりと、瞬く間にグローバルな現象となり、ゲーム、グッズ、音楽、イベントなど、凄まじい勢いでビジネスの裾野を広げています。

IPは、一度成功すれば継続的な収益をもたらし、新しいビジネス展開の土台となり、熱心なファン層が強力な追い風となる――まさに現代企業にとって、これほど頼りになる資産はありません。

しかし、IPがこれほど万能の鍵となる時代は、つい最近まで当たり前ではありませんでした。特に、日本の玩具業界におけるキャラクタービジネスは、流行り廃りが激しく、予測も管理も難しい「波」のようなものとして、多くの企業にリスクとして恐れられていたのです。その時代に、この不安定な「波」の底に眠る巨大な可能性を見抜き、自社の全てを懸けてその力を解き放とうとした一人の経営者がいます。バンダイの三代目社長、山科誠氏です。創業者の夢を受け継ぎながらも、キャラクタービジネスという荒海に敢えて船出し、それを乗りこなすことで、彼は会社を、そして業界の景色を一変させました。

創業者の理想、そして二度の継承:バンダイの揺れる船出

株式会社バンダイの歴史は、1950年に山科直治氏が玩具問屋として創業したことから始まります。直治氏は「子供たちに夢と希望を与える」という理想を掲げ、玩具づくりに情熱を注ぎ、メーカーとして自社開発・製造へと事業を広げ、バンダイの基盤を築きました。しかし、玩具業界は常に流行のサイクルが速く、特にテレビ番組と連動するキャラクター商品は、番組人気という予測不能な波に売上が大きく左右される、極めて不安定な性質を宿していました。成功すれば莫大な利益をもたらす一方、番組終了と共に売上が激減し、在庫の山を築くリスクと常に隣り合わせだったのです。これは、創業者の情熱をもってしても、制御しきれないビジネスの不安定さでした。

創業者の直治氏から社長職は一度、山科家を離れます。二代目社長を務めた菅澤丑雄氏は、このキャラクタービジネスの持つ構造的な不安定さと向き合い、経営の安定化を図る必要性が認識されていた時期です。キャラクター人気に過度に依存する体質からの脱却や、リスク分散が課題となっていた時期です。

そして1987年、創業者の息子である山科誠氏が、バンダイ三代目社長として会社の指揮を執ることになります。彼は、父が築いた「キャラクターのバンダイ」というアイデンティティ、そして会社が長年抱えるキャラクター人気という制御しがたい波という宿命を、誰よりも深く理解していました。そして、彼はこの波を避けるのではなく、敢えてその最も荒々しい中心へと、会社の未来を託して漕ぎ出すという、従来の経営セオリーとは一線を画す大胆な決断を下します。

「波乱」を「チャンス」に変える覚悟:キャラクターという荒海への全賭け

多くの企業がキャラクタービジネスの持つハイリスク・ハイリターンな性質を警戒し、距離を置こうとする中で、山科誠氏は真逆の道を選びました。彼の行動や戦略からは、キャラクターが持つ単なる一時的な流行ではない、人々の心を深く捉え、永続的なファンコミュニティを形成する力を確信に近い形で認識していたと推測されます。そして、その力を徹底的に追求することこそが、不安定さを克服し、バンダイをオンリーワンの存在へと押し上げると考えました。

「どうせやるなら、当たるか外れるか分からない波に中途半端に関わるのではなく、とことんやり切ろう」――これは、彼の経営姿勢を表す言葉として知られています。そこには、リスクを徹底的に管理・排除するのではなく、不確実性そのものを事業の核とし、その波を乗りこなすことで圧倒的な優位性を築こうとする、彼の「ギャンブラー的」とも評される大胆不敵な経営者としての本質が見て取れます。彼は、キャラクタービジネスという荒海を、会社の成長を加速させるための「波」と捉え、そこに会社の全てを賭ける覚悟を持っていました。

世界的IPへと「波」に乗せる戦略:ガンダムとドラゴンボール

山科氏のIP戦略の核心は、「IPを単なる商品化のネタではなく、長期的に育て、多角的に展開することで、その価値を最大化する」という点にありました。その最も成功した事例であり、現在バンダイナムコグループを象徴する二大IPが、「ガンダム」と「ドラゴンボール」です。

「機動戦士ガンダム」は、1979年のテレビ放送は視聴率的に振るいませんでしたが、山科氏はその奥深い世界観とメカニックデザインのポテンシャルに強い可能性を見出し、放送終了後もプラモデル「ガンプラ」の展開を継続・強化することを指示しました。初期の子供向けキットから、模型ファンを唸らせる精密設計のシリーズ(HG, MGなど)を投入し、ホビー誌との連携やイベントを通じて熱心なファンコミュニティを育てました。これは、商品開発や販促活動そのものを、IPの価値を高め、ファンを定着させるための能動的な手段として活用した、当時としては革新的な「IP育成」の手法です。ガンプラの成功を基盤に、バンダイは劇場版やOVAの製作に出資し、ゲーム化も推進。IPの源泉である映像コンテンツに継続的に投資することで、ガンダムというIPは衰えることなく世界観を広げ続け、今日まで続く「IP神話」となりました。現在のバンダイナムコグループのホビー事業、特にガンプラの世界的成功は、まさにこの時に蒔かれた種が巨大な木へと成長した姿です。

そして、もう一つの世界的IPが「ドラゴンボール」です。山科体制下で、バンダイはアニメ「ドラゴンボールZ」の国内外での爆発的な人気と並行して、玩具やカードダスなどのマーチャンダイジングで巨大な成功を収めました。これは、外部の強力なIPが持つグローバルな求心力を、バンダイの高い商品化企画力と世界的な販売網で、そのビジネスポテンシャルを最大限に引き出した事例です。ガンダムが「自社でIPをゼロから、あるいは低迷から育て上げた」象徴なら、ドラゴンボールは「外部の巨大IPという津波を乗りこなし、グローバルビジネスへと転換させた」象徴と言えるでしょう。これらのIPは、現代のバンダイナムコグループがゲームやグッズなど様々な領域でグローバルに成功する上で、圧倒的な牽引力となっています。

他にも、山科氏は「スーパー戦隊シリーズ」や「仮面ライダーシリーズ」といった長寿特撮IPの商品化を、常に新しいアイデアと高いクオリティで展開し続けました。これらのIP群が、半世紀近くにわたって安定した収益源となっていることも、彼の時代に培われたバンダイのIPマネージメントと商品企画力の高さを証明しています。

新たな波への挑戦と波乱万丈:たまごっち、ゲーム、そして「メジャー」航路

山科氏は、既存IPの活用だけでなく、新しいIPの創造や、IPを展開する新しい領域への挑戦も厭いませんでした。1996年に登場した「たまごっち」は、その最も革新的な試みです。これは映像作品を原作としない、プロダクトそのものがIPとなるという、当時としては極めてユニークな発想でした。シンプルな「育てる」体験を通じたキャラクターへの愛着は、瞬く間に社会現象となり、予測不能な規模で世界的な大ヒットとなりました。これは、山科氏が築いた、固定観念に囚われず、IPの可能性を追求する企業文化が生んだ、「波」が予期せぬ形で押し寄せた成功例と言えます。

しかし、彼の「バンダイを世界のエンターテインメント界の『メジャー』にする」という壮大な野心から生まれた挑戦には、大きな波乱も伴いました。Appleと共同開発したマルチメディア機「ピピンアットマーク」は、そのコンセプトの曖昧さや市場の受け入れられなさから大失敗に終わり、多額の損失を出しました。これは、彼の大胆な市場参入という「波」が、市場の現実という岩礁に乗り上げた具体例であり、山科氏のリスクを恐れない姿勢の裏にある、失敗の可能性をも示すものです。

そして、山科氏の経営者人生で最大の「波」、そして最大の「賭け」と言えるのが、セガとの合併交渉でした。これは、バンダイの強力なIP・商品力とセガのゲーム開発・ハード技術を結集させ、世界のエンターテインメント地図を塗り替えうる巨大なポテンシャルを持つ連合を目指した、彼の「メジャー」航路への挑戦の象徴でした。しかし、文化や経営方針の違いから交渉は破談に終わります。ピピンの失敗や合併の破談は、山科氏がいかに高く、そして危険な「波」に挑み、そこに伴う大きなリスクをも受け入れていたかを示しています。北野武監督作品への出資なども含め、彼の挑戦は常に「メジャー」への道を模索するものでした。

世界のバンダイナムコグループへ:IP経営の礎を築いた男

山科誠氏がバンダイ三代目社長として率いた時代は、キャラクタービジネスという「当たるも八卦」の荒海を、強固なIP基盤を持つ安定した大洋へと変貌させるための格闘の歴史でした。創業者の息子として、会社の伝統と課題を背負った彼は、キャラクターの潜在力を誰よりも信じ、リスクを恐れず、時には大きな失敗という「波」に飲まれかけながらも、IPの持つ計り知れない可能性を追求し続けました。

彼の時代に確立された「IPを長期的に育成・拡張する」「プロダクトそのものをIPにする」「多様なメディアでIPを展開する」「リスクを恐れず新たな領域に挑戦する」といった精神と戦略は、2005年にバンダイとナムコが経営統合して誕生した「バンダイナムコグループ」の経営戦略の根幹として、明確に引き継がれています。現在のバンダイナムコグループが「IPを軸とした事業戦略」を掲げ、ガンダムやドラゴンボールといった世界的IPを中心に据え、ゲーム(バンダイナムコエンターテインメント)、玩具、映像、イベント、アミューズメントなど多岐にわたる事業を展開し、世界市場で圧倒的な存在感を示しているのは、まさに山科氏の時代に蒔かれ、育てられた種が巨大な木へと成長した姿です。

山科誠氏は、単なる保守的な安定を選ぶことなく、不確実性に満ちた「波」の力を解き放つことで、会社を、そして業界の未来を切り開いた先駆者でした。ピピンの失敗や合併の挫折といった大きな痛みという「波」に揉まれながらも、IPへの信念を貫き通した彼の軌跡は、創業者の魂を受け継ぎつつ、それを大胆な変革へと繋げた偉大な経営者の物語であり、今日の巨大IP企業、バンダイナムコグループの揺るぎない礎石として、今も光を放っています。