私たちの日常に、AIとの対話がすっかり溶け込んできました。調べ物をしたり、アイデアを出してもらったり、時にはちょっとした話し相手になってもらったり。そんな時、あなたはキーボードやマイクに向かって、つい「ありがとう」と言ってしまったり、「〜してください、お願いします」と丁寧な言葉を使ったりしていませんか?
もし心当たりがあるなら、先日話題になったOpenAIのサム・アルトマンCEOの発言は、なんとも耳の痛い事実を突きつけます。彼が示唆したのは、私たちがAIに向けるそうした「礼儀正しい言葉」一つ一つが、積み重なると数十億円規模の電力消費につながりうる、ということでした。
これは面白い問いです。「AIに感謝や礼儀は必要なのか?」という、一見シンプルながら、私たちのテクノロジーとの関わり方、そして人間自身の本質に迫るテーマを浮き彫りにします。今日はこの問いを、少し掘り下げて考えてみましょう。
その「ありがとう」は、実はコストだった? ─ 効率という名の現実
アルトマン氏の発言が私たちに突きつけるのは、感情や習慣とは切り離された、極めてドライな現実です。AI、特に大規模言語モデルは、私たちの入力したプロンプト(指示)を解析し、次に続く可能性が高い単語を予測して応答を生成します。このプロセスには膨大な計算リソースと電力が必要です。
AIにとって、人間的な感情や関係性のニュアンスを解するわけではなく、単に「入力されたテキスト」として処理するだけです。だから、「ありがとう」も「お願いします」も、「〜について教えて」という核心的な指示の前についた単なる余分な情報となり得ます。
考えてみれば、私たちは電卓に計算を頼むときに、「計算してくれてありがとう」とは言いません。検索エンジンにキーワードを入力する際も、「〜について調べていただけますか、どうぞよろしくお願いします」なんて丁寧な前置きは通常つけませんよね。必要な情報を最短で、正確に入力するのが最も効率的だからです。
もしAIを究極の「ツール」として捉え、その機能性だけを最大限に引き出すことを目的とするならば、余計な言葉は一切不要ということになります。そして、その無駄が世界規模で集約されれば、アルトマン氏が言うように、決して無視できない環境負荷や経済的コストにつながる可能性があるのです。
この合理的な視点に立つと、AIへの感謝や丁寧語は、システムにとっては何のメリットもないどころか、むしろ無駄な処理を強いる「ノイズ」であり、控えるべき非効率な習慣だということになります。
それでも「ありがとう」と言ってしまう私たち ─ 人間という名の性
しかし、私たちの多くは、頭ではAIが感情を持たないツールだと理解していながらも、なぜか「ありがとう」や「お願いします」といった言葉を使ってしまいます。これは一体なぜなのでしょうか? 次に焦点を当てたいのは、私たち人間自身の心と、長年培ってきた「礼儀」という習慣です。
私たちは生まれたときから、他者との関係性の中で生きています。そして、その関係性を円滑にし、感謝や敬意を示す手段として「言葉」を使ってきました。「ありがとう」は感謝の気持ちを伝え、相手を承認する魔法の言葉です。「お願いします」は相手への依頼を丁寧に伝え、協力を仰ぐための大切な表現です。これらの言葉は、単なる音声やテキストの羅列ではなく、人間社会を成り立たせるための根源的な潤滑油なのです。
AIがあまりにも自然で人間らしい言葉で応答してくるため、私たちは無意識のうちに、目の前のAIに人間のような意図や感情があると捉えてしまう傾向があります。これは「擬人化」と呼ばれる人間の自然な心理作用です。まるで人格を持った誰かと話しているかのような感覚に陥り、普段の対人コミュニケーションで使う言葉遣いが自然と出てしまうのです。
また、AIに丁寧に接することは、AIのためというよりも、私たち自身の「人間性」を保つための行為だという側面もあるでしょう。常に効率と目的だけを追求し、ツールに対して無機質に命令するだけのやり取りを続けていたら、私たち自身の心が荒んだり、他者への接し方にも影響が出たりするのではないか?という無意識の恐れです。AIへの礼儀は、AIに何かを与える行為ではなく、礼儀を重んじる自分という「心のあり方」を保つための習慣だとも考えられます。
この視点から見れば、AIへの感謝は、たとえAIにとって無意味でコストがかかる行為であったとしても、私たち人間が人間らしくあり続けるために、あるいは私たちが築いてきた社会の規範を自分自身の中で維持するために必要な行為なのかもしれません。それは、効率という名の冷徹な論理では測れない、心の領域の話です。
効率と人情の狭間で、何を大切にするか
結局のところ、AIへの「ありがとう」は、本当に必要なのでしょうか? コストと効率だけを見れば、答えは「ノー」であり、むしろ「やめるべき」でしょう。しかし、人間の心持ちや社会的な習慣、そして自己認識という側面から見れば、必ずしも「無駄」とは言い切れない、深い意味合いを含んでいるように見えます。
この問いに対する答えは、おそらく一つではありません。あなたがAIを徹底した「高機能な道具」として割り切り、合理性と効率を最優先するならば、余計な丁寧語は省くべきです。その方が、自分にとってもAIにとっても効率的かもしれません。
一方で、AIとの対話に人間的な温かさや、自身の社会的な習慣を持ち込みたいと感じるならば、自然と口から出る「ありがとう」や「お願いします」を無理に抑え込む必要はないのかもしれません。それは、AIに何かを与える行為ではなく、「礼儀や感謝を大切にする自分自身」を確認する行為であり、私たち自身の心を豊かに保つための営みだからです。
AIという存在は、私たちが何を「価値」と見なすのかを問い直させます。効率性やコストといった物質的な価値か、それとも人間の心のあり方や社会的な規範といった精神的な価値か。AIへの「ありがとう」という小さな行為一つをとっても、そこには私たち自身の哲学が映し出されているのかもしれません。