1975年4月5日に放送開始、1977年3月26日まで全84話が放送された『秘密戦隊ゴレンジャー』は、日本の特撮ヒーロー番組史において画期的な作品です。石森章太郎氏が原作として提示した「集団ヒーロー」のコンセプトと、テレビ局のネットチェンジという予期せぬ状況下で生まれたこの作品は、後のスーパー戦隊シリーズの礎となりました。また、初期作品では石森章太郎の名がクレジットされていましたが、シリーズ第3作『バトルフィーバーJ』以降は東映プロデューサー陣が共有する共同ペンネーム「八手三郎」が採用され、シリーズ全体の統一感を保つ重要な役割を担うこととなりました。本記事では、これらの背景や制作秘話、そしてゴレンジャーがもたらした革新についてまとめました。
1. テレビ局の転機と『秘密戦隊ゴレンジャー』誕生の背景
1-1. ネットチェンジが生んだ危機と新企画
1971年に放送が開始された『仮面ライダー』は、毎日放送(MBS)制作、NET(現:テレビ朝日)系列で大ヒットとなりました。しかし、1975年3月末、MBSと朝日放送(現:ABC)のネットチェンジにより、仮面ライダーシリーズ(当時は『仮面ライダーストロンガー』)の放映権がNET系列からTBS系列へ移動。このため、NETは土曜19時30分というゴールデンタイムの看板番組を失い、新たなヒーロー番組を急遽企画する必要に迫られました。
1-2. 石森章太郎が生み出した「集団ヒーロー」
この状況を受け、NETと東映は新たなヒーロー番組の企画に着手。キャラクターデザインと原作の依頼先として選ばれたのが、仮面ライダーの生みの親でもある【石森章太郎】氏です。石森氏は、従来の単独ヒーローとは一線を画し、「5人のヒーローが力を合わせて戦う」という斬新なコンセプトを打ち出しました。彼は、子供たちが一目でキャラクターを識別できるよう、赤、青、黄、桃、緑という鮮やかな5色のカラーリングを考案。シンプルながらも個性豊かなマスクデザインとコスチュームは、後のスーパー戦隊シリーズの基本フォーマットとして確固たるものとなりました。
2. 制作陣と「八手三郎」の登場
2-1. 東映の戦略とタイトル決定
ネットチェンジという急激な環境変化の中、東映の渡邊亮徳氏(当時テレビ事業部部長)らは、「新たなヒーローで失った看板番組の穴を埋める」という使命感から、企画会議を重ねました。数あるタイトル案(『レッドマフラー』『ファイヤーV』『ファイブレンジャー』『ガッツレンジャー』など)の中から、シンプルで覚えやすく、かつ勢いを感じさせる『秘密戦隊ゴレンジャー』に決定。この名称は、子供たちにとってもインパクトが強く、名乗りの際の「5人揃って、ゴレンジャー!」という決めポーズは、歌舞伎『白浪五人男』にインスパイアされたものです。
2-2. 原作クレジットの変遷:石森章太郎から八手三郎へ
『秘密戦隊ゴレンジャー』およびその続編『ジャッカー電撃隊』(1977年)は、原作クレジットに石森章太郎氏の名前が掲げられています。しかし、シリーズ第3作『バトルフィーバーJ』(1979年)からは、原作クレジットが【八手三郎】に変更されます。
「八手三郎」とは、東映プロデューサー陣が共有する共同ペンネームであり、石森氏の原作で築かれた基盤を踏襲しながらも、東映が主体となって制作を進める新たなフェーズの象徴です。これにより、スーパー戦隊シリーズは「石森章太郎原作」の時代と、「八手三郎原作」の時代という2つのフェーズを持ち、世界観やフォーマットの統一性が保たれることとなりました。
3. ゴレンジャーがもたらした革新とその影響
3-1. 集団ヒーローフォーマットの確立
『秘密戦隊ゴレンジャー』は、単独ヒーローものではなく、「5人のヒーローが連携して戦う」という新しいフォーマットを確立しました。赤(リーダー)、青(サブリーダー)、黄(力持ち・カレー好き)、桃(女性ヒロイン)、緑(無邪気な戦士)という各色の設定は、視聴者に分かりやすいキャラクター像を提示し、その後のスーパー戦隊作品の基本パターンとなりました。さらに、決めポーズや名乗りのシーンには日本の伝統芸能(歌舞伎『白浪五人男』)の要素が取り入れられ、独自の演出が生み出されました。
3-2. 商業的成功と社会現象
放送開始後、『秘密戦隊ゴレンジャー』は最高視聴率20%超えを記録し、2年間で全84話を放映。さらに、主題歌「進め!ゴレンジャー」はミリオンセラーとなり、関連玩具(特にバンダイから発売された「ポピニカ」シリーズ)の売上も年間46億円以上を記録。これらの成果は、単なる番組としてだけでなく、国民的ヒーローシリーズとしてスーパー戦隊の伝説を築いたことを示しています。
4. 原作者クレジット変更の背景とその意義
4-1. 『ジャッカー電撃隊』の苦戦と企画の見直し
『秘密戦隊ゴレンジャー』の成功にもかかわらず、続編となった『ジャッカー電撃隊』(1977年)は、当初の期待ほどの人気を得られず早期終了となりました。これを受け、東映はシリーズの方向性を再検討する必要に迫られ、企画段階からより東映主体の制作体制を整える戦略を採用するようになりました。
4-2. 「八手三郎」というペンネームの導入
『バトルフィーバーJ』(1979年)から原作クレジットが「八手三郎」に変更されたのは、単にスタッフの共同ペンネームとしての側面だけでなく、シリーズ全体の企画・制作を統括し、権利関係を整理・管理するための戦略的判断でもありました。これにより、石森章太郎氏が生み出した初期作品の成功を基盤としつつ、東映が今後のスーパー戦隊シリーズをより発展させるための新たなスタートラインが築かれたのです。
なお、石森章太郎氏と東映の関係は、原作クレジット変更によって悪化したわけではなく、その後も怪人デザインなどで協力関係は続いています。
5. まとめ
『秘密戦隊ゴレンジャー』は、テレビ局のネットチェンジという予期せぬ危機の中で、【石森章太郎】氏が提案した「5人の集団ヒーロー」という革新的なコンセプトにより誕生しました。赤、青、黄、桃、緑という鮮やかなカラーリングと、日本の伝統芸能から着想を得た決めポーズなど、視覚的にも強いインパクトを持つ本作は、放送開始後に最高視聴率20%超えという国民的ヒットを記録。さらに、関連商品の大ヒットも相まって、スーパー戦隊シリーズという長寿フランチャイズの礎となりました。
また、シリーズ第3作『バトルフィーバーJ』以降、原作クレジットが【八手三郎】に変更されたことは、東映が主体となって制作体制を強化し、シリーズの統一感を保つための戦略的な決断でした。石森章太郎氏が築いた原初のコンセプトは、八手三郎という新たな名の下で引き継がれ、以降のスーパー戦隊作品においてもその精神とフォーマットが守られています。
50周年を迎えた今、改めて『秘密戦隊ゴレンジャー』の誕生秘話と、それを支えた石森章太郎氏および「八手三郎」の意義を振り返ることは、スーパー戦隊シリーズの豊かな歴史と未来への可能性を再認識する絶好の機会となります。子供たちに夢と勇気を与え続けたこの国民的ヒーローたちの軌跡は、今後も色褪せることなく輝き続けるでしょう。